2017年6月

イエスのみ心・思いやり

ヨゼフ 松井繁美神父

「大きなリンゴの木、ありますでしょう。リンゴの木、大きなリンゴの木でしたので、たくさん、たくさんの実、ありましたでしょう。しかし、たくさんの実があるうち、虫食べるリンゴ、三つばかりありましたでしょう。それで三つ腐りました。三つばかり腐りましたから、あなた、リンゴの木、根もとから切りますでしょうか。いやなところありますでしょう。変なところありますでしょう。しかし、根もとから切りますでしょうか。きれいな実、たくさんありますでしょう。」

ひとりのシスターが若いころ、修道会にとどまるべきか、どうかずいぶん迷ったと言います。働くことは少しも苦にならなかったのに、気の合わない人、意地悪に思える人がいて、一緒に生活することが、とても大変だと感じていた時に、フランス人のおばあちゃんシスターに相談に行ったそうです。
その時に話してくれたのがこの話だったのです。あまり上手ではないけれど、親しみのある日本語で「大きなリンゴの木、ありますでしょう。・・・・」と。

実はこのおばあちゃんも若い頃同じような壁にぶつかったときに、やはりおばあちゃんシスターに相談に行った時に同じことを言われたのでした。この言葉に励まされて、修道生活を続けることができたと。
とてもあたたかい言葉であると思います。

とても思いやりのある言葉であると。イエスの心は、まさにこの「思いやりの心」だったのだと思います。

イエスの活動のほとんどはガリラヤ湖周辺でした。

あるときイエスの一行が舟に乗り込み、「人里離れたところ」に向かって進んでいった時、そのことに気付いた人々が、「すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた」とあります。(マルコ6章30~34章)イエスと弟子たちが乗っていた舟を見ながら、ガリラヤ湖の岸沿いを必死に走りながら、その数を増していく群衆の姿が目にうかぶようです。
福音書はその様子を「飼い主のいない羊のような有様」と表現します。なぜ群衆が必死にイエスの後を追ったのか。その姿の中にガリラヤに住む多くの人が見捨てられ、圧迫され、誰に助けを求めたらいいのか、どう生きて行ったらいいのか、途方に暮れていた人々の気持ちが伝わってきます。

今私たちが生きている社会にも、同じようなことを感じて苦しむ人は多いのでしょう。
ガリラヤ湖周辺に住む人たちは追っかけて行く人を持っていました。しかし今、同じように苦しむ人たちは追っかけて行く人を持っているでしょうか。知っているでしょうか。

多くの現代人がこのイエスの「思いやりの心」に触れることができるように、私にできることは何なのでしょうか。

6月、「イエスのみ心の月」にそんなことを考えています。

教会報 2017年6月号 巻頭言

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