2018年2月

生きているしるし

フランシスコ・マリア 古里慶史郎神父

先日の夜、部屋でPCに向かい仕事をしていましたら、メールが着信しました。イタリア語です。メールのタイトルは「Un segno di Vita」(生きているしるし)とあります。とても怪しい感じがしますが、相手のアドレスを見てピンと来るものがあり、開いてみました。内容は「やあ!フランチェ、元気だろうか。このコンタクト方法をネット上で見つけたので、連絡しています(おそらくフランシスコ会関係のお知らせ中にあったものだと思われます)。一緒にローマの聖書研究所で勉強していたクロドミロス神父だよ。もしできれば、今も元気で頑張っているというしるし(Un segno di Vita)をくれたら嬉しいな。」というものでした。

一気に当時のことがよみがえりました。私には特に仲の良かった4人の同僚がいて、2人の韓国人の教区司祭、1人のルーマニアからの司祭、そしてブラジル人のクロドミロス神父です。ほぼ毎日テストが続き、週末にも中規模のテストがあり(落としたらその時点で学校追放)、毎週イタリア語、英語、ドイツ語などの文献を4~5冊よみ、同時にギリシャ語ヘブライ語アラビア語の単語をひたすら覚えるような生活でしたので、私たち5人はよく授業のあとに一緒に近くのアイリッシュバーに行き、冷えたギネスビールを飲みながら、時には涙を流したり、「やってられないよな~!」と大声を挙げたり、馬鹿話に大笑いしたり、憂さ晴らしをしていたのでした。こうした環境では、とても強い友情が生まれます。私たちの絆も、とても深いものでした。

やがて私たちは卒業し、風の便りに、彼らがそれぞれの国で聖書研究者の重鎮として頑張っていると聞いてはいたのですが、同時に、あまりに勉強し過ぎて、司祭職や修道生活を離れてしまう人も多く、なかなか連絡をとるのが怖い、という一面もありました。ですから彼が、恐る恐る「大丈夫かな、フランチェスコは元気で頑張っているかな」という想いを「生きているしるしをくれたら嬉しいな」という言葉に込めていることも痛いほどわかります。

と当時に、私はこの小さなメールの背景に、はるか地球の裏側から、放蕩息子の父のような、あるいは1匹の羊を心配して探す羊飼いのような彼の想いだけではなく、同時に、神様の、イエスさまの、心配りをも感じたのでした。久しぶりに、友だちに、またイエス様に、ああ、自分は大切にされているな、と思えた出来事です。

四旬節が始まります。この回心の時に、多くの人が「大切にされている自分を」見出すことができますように。

教会報 2018年2月号 巻頭言

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