司祭のメッセージ

10月24日 年間第30主日   マルコによる福音 10章46節〜52節

  イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという
盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れん
でください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを
憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで
言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、
なお道を進まれるイエスに従った。

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
 明治になり、キリスト教の再宣教が始まってから、日本人最初のフランシスコ会員司祭となったのは、武宮雷吾神父様
でした。東京の築地教会出身で、生粋の江戸っ子です。ドイツに送られて司祭となって帰国した後、生涯を北海道での
宣教司牧に献げました。教会付属の幼稚園に来る子どもたちにはとても優しい方で、園長室兼主任司祭室のドアの取っ手は、
幼稚園児でも届くようにと、床から60cmほど高さに付けられていました。大人の信者にはとても不便な高さです。しかし、
子どもに優しいのとは反対に、後輩のフランシスコ会員司祭や神学生、そして大人の信徒には厳しい方でした。例えば、
昨年12月に亡くなられた戸田三千雄神父様など、すでに司祭になっていましたが、武宮神父様が神学生になさる講話を
聞きたいと思っていました。しかし、先に修道院長から頼まれた用事をしたため、講話が行われている教室に遅刻して
しまいました。恐る恐る後ろから入ったのですが、「講話に遅刻するとは何事か!」と、あまりに大きな声で怒鳴られた
ので、気を失って倒れてしまったと聞いております。そんな厳しい武宮神父様ですが、子どもたちには時々、「オレ
は神さまよりも偉いんだぞ」と「うそぶく」ことがありました。ギョッとさせられる言葉ですが、どういう意味かと言えば、
武宮神父様が祈ると、どんな願いでも聞き入られるからだそうです。だから、神さまに命令しているようなものだとの
ことでした。神さまが常に祈りを聞いてくださることに、絶対の信頼を置いていたのです。
 さて、今日の福音では、イエスさまがエリコを出て行かれるとき、物乞いをしていたバルティマイという盲人の目を
見えるようにします。イエスさまは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。どこに彼の信仰が現れている
のでしょうか? バルティマイは道端で物乞いをしていただけなのですが、大勢の人が通る音を聞き、それがナザレの
イエスさまに付き従う人々だと分かると、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください!」と叫び出します。
イエスさまが彼をお呼びになると、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」イエスさまのところに来ます。彼は物乞いをする
くらいですから、お金も財産も持っていなかったでしょう。しかし、ただ一つ、夜寝る時にも使う上着だけがありました。
それを脱ぎ捨ててイエスさまのところに行ったのです。つまり、イエスさまのところに行きさえすれば、必ず目が見える
ようにして下さると信じていたのです。もし、目が見えるようにされなければ、脱ぎ捨てた上着は誰かに盗まれてしまう
かも知れません。その日の夜から、安らかに寝ることも出来なくなってしまうかも知れなかったのです。
 持っている物をすべて投げ打って、主の元に近づくという態度が、彼のイエスさまへの信仰を表していたのです。
見方を変えれば、イエスさまの方が、この盲人の信仰に圧倒されて「負けてしまった」とも言えます。これほどの
信仰が示されるとき、おそらく神さまも「お手上げ」になったのでしょう。
 「オレは神さまよりも偉いんだぞ」と、うそぶくことが出来るほどの信仰を養いたいものです。

------------------------------------------------------------------------
10月17日 年間第29主日 マルコによる福音 10章35節〜45節


〔そのとき、〕《ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。
「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。
「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受ける
ことができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。
「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、》
イエスは『十二人』を呼び寄せて言われた。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうではない。
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

主任司祭説教
今日の福音では、ヤコブとヨハネ以外の十人の者は、「ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とされます。
弟子たちは皆、イエスさまがエルサレムに入ったならば、新たな王国を始め、王となるだろうと期待していたのです。
ところが、弟子のヤコブとヨハネはほかの者たちよりも先に、イエスさまが「栄光を受けたときに、その右と左に座らせてください」
と願ったのです。つまり、イエスさまが王座に就いたら、その右大臣と左大臣にしてもらう約束を得ようとしたのです。
ほかの十人にしてみれば、これは抜け駆けの行為であり、彼らを出し抜こうとするものでした。これに腹を立て始める
ということは、彼らもまた、同じ願望を持っていたことを示します。
ただ、ヤコブとヨハネの方が、早く正直にそれを口に出しただけなのです。
しかし、イエスさまは、弟子たちの間では、上になりたい者は、皆に仕える者になり、すべての人の僕になるように諭されます。
なぜなら、イエスさまがエルサレムで成し遂げられようとされているのは、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」
ことだからです。イエスさまが弟子のヤコブとヨハネに願われたときに、彼らの覚悟を確かめられた「わたしが飲む杯を飲み、
わたしが受ける洗礼を受ける」こととは、イエスさまご自身が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けて宣教を開始され、また十字架上の
死でその宣教を終えられるをことを暗示しています。最後の晩さんにおいてイエスさまは、ぶどう酒の満ちた杯をとり、
これはわたしの血の杯であると宣言されました。十字架上での死そのものが「杯」という語に表されています。ですから、
洗礼と杯は、イエスさまの宣教活動全体を現すことになります。そして、その宣教の内容とは「皆に仕える者になり、
すべての人の僕になる」という、この世での価値や権力とはまったく異なるものです。このことは、十二人の弟子たちだけに
言われたのではなく、すべての時代の、すべての弟子、つまり、わたしたちにも言われていることです。なぜなら、
わたしたちもまた、洗礼によってキリスト者となり、神の子として新たに誕生した以上、生涯をかけてイエスさまの教えを
宣べ伝える者とされているからです。これを誠実に実践できた人は、教会から信仰の手本として、殉教者あるいは証聖者である
「聖人」として称えられる人たちです。その人たちは殉教することによって、また生涯を教えに捧げることによってこれを完成
しました。ちなみに、ヤコブは十二人の中で最初に殉教した弟子であり、他方のヨハネは、十二人の中で最後まで生きながらえ、
独身生活を貫いて証しを立てた弟子です。つまり、イエスさまのお言葉通りに、二人はその後、イエスさまの杯を飲み、
洗礼を受けることになったのです。
わたしたちもまた、彼らに倣い、殉教の方はともかくとして、日々の生活で証しを立てたいものです。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

10月10日 年間第28主日 マルコによる福音 10章17節〜30節

〔そのとき、〕イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、
何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、
「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積む
ことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を
持っていたからである。
   イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて
驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、
らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
   《ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。
「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、
迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」》

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
   この前の水曜日に、何人かのご婦人方に手伝っていただいて、修道院の庭にある柿の実の収穫をしました。甘柿の方は、
熟したものから鳥さんたちに突かれてしまい、赤く大きいものはすべて、傷物にされていたのですが、渋柿の方は、鳥さんたちも
遠慮してくれたためか、立派に赤くなったものが多く枝に残っていました。葉もほとんど落ちているので、木の下からでも
見つけるのは簡単です。脚立に上って実のついた枝を切り取ったのは専らわたしで、ご婦人方には脚立を支えてもらったり、
取った実の小枝を払ったり、渋抜きをお願いしました。収穫も順調に進み、一番高い所あたりにある、四つほど一緒に「鈴なり」
になった枝を収穫しようとして欲張って切り取った途端、「鈴なり」になった柿の重みでバランスを崩してしまいました。
幸い、ご婦人方に足や胴を押さえてもらい、事なきを得ました。けれどもここで終了です。柿の収穫より、自分が落ちて怪我を
してしまっては元も子もありません。おおよそ一時間の作業でした。それにしても、加齢と運動不足のために身体が固くなっていて、
思うように動かせないのには困ったものです。神の国に入るには、さらに身体と心の柔軟性が必要とされるからです。
   さて、今日の福音箇所でイエスさまは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と仰せになります。
これを聞いて弟子たちは「それでは、一体だれが救われるのだろうか」と互いに言ったとのことですが、これを聞いて、あわてて
ダイエットを始めなければならないほどのお金持ちは、このミサにはそう沢山はいらしていないと思います。
  イエスさまが使われた「らくだ」と「針の穴」の比較について、ある解説者によると、「らくだ」は当時、エジプトや
メソポタミアなどの遠くから、はるばる砂漠を越えて荷物を運ぶために使われた代表的な動物で、「針の穴」とはエルサレム城壁に
あった門のうち、一番小さな通用門のニックネームだったそうです。その通用門が人間の背丈ほどの大きしかなかったため、
ここを荷物を積んだ「らくだ」を通そうとすると、門が小さすぎるため、「らくだ」から荷物を降ろしたうえで、頭を垂れさせ、
膝を屈めさせなければならません。でも、頭を垂れ膝を屈めた「らくだ」は、自分で歩くことができず、「らくだ」がせっかく
運んできてくれた荷物は、結局、持ち主が背負って運ばなければなりません。運び込もうとする荷物が多ければ多いほど、
その苦労が大きくなってしまいます。荷物など一切持たない小さな子どもたちは、この門をらくらくと通ることができ、
おそらく、荷物を持った大人たちは大変だなと思ったことでしょう。
 エルサレム城壁の「針の穴」は、神の国に入るための「狭き門」です。イエスさまはご自分を羊が出入りする門だと
述べられています。この門とはつまり、イエスさまご自身、あるいはイエスさまの教えのことであり、その門を通って神の国に
至るためには、教えに対して素直に頭をたれ、謙遜に膝を屈めて、何も持たない子どものようにならなければならないのです。

----------------------------------------------------------------------------------------------

10月3日 年間第27主日 マルコによる福音 10章2節〜16節

 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。
イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、
離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟を
モーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と
結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、
人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して
他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
《イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、
弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、
子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。》

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
  やっと「緊急事態宣言」が解除されて、今日から「主日の公開ミサ」が許されるようになりました。またご一緒にミサを
捧げることができます。
  さて、公開ミサが休止されている間に季節は移り変わり、秋たけなわとなり、隣の幼稚園では月曜日・火曜日と運動会が行われる
そうです。10月は「神無月」といって、俗に日本では各地の神さまが出雲に集まって「縁結び」を話し合うと言われています。
結婚式のシーズンが到来したわけですが、今日の福音箇所では、離婚・再婚の是非がイエスさまに投げかけられています。
イエスさまはお答えになります。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」このお言葉から、
カトリック教会では離婚・再婚が許されないものとされてきました。しかしそれは、不幸にして別れてしまった者たちを排斥する
ためのものではなく、せっかく結婚の絆に結ばれた者たちが、離婚・再婚などしたくないと思うほど、固く幸せに結ばれてほしいと
願っているからです。
   さて、40年程前、わたしが司祭叙階した頃、日本では見合い結婚がまだまだ多かったのですが、せっかく結婚しても、
その3分の1ほどが5年以内に別れてしまうという統計がありました。信者同士の場合には、その割合がずっと低いと思われますが、
離婚すると教会に来なくなって隠れてしまうためか、どこにも統計がありません。キリスト教徒が多い米国の場合は、ほとんどが
恋愛結婚だと思われるのですが、それでも結婚して5年以内にその3分の1ほどが別れてしまうそうでした。また同じその米国の統計では、
妊娠したことによる10代での結婚は、5年以内にその100%が別れてしまうと聞いたときには驚きました。結婚生活に子育てという
重荷がいっぺんに加わってしまい、未熟な若者には耐えられないのだろうとの説明でした。動物的に子を造ることはできても、
生涯をかけて互いに愛し合うには、人間としても成熟していることが必要だからです。他方で、完全な人間的成熟といったものには、
おそらく生涯をかけても到達できる方は少ないと思われます。ですから、それは成熟してゆく「努力」を続けることにあるはずです。
その努力を促し、支えてくれるのが、神さまへの信仰・信頼でしょう。相手を、自分の好みだけで選んだのではなく、神さまが結び合わ
せてくださったパートナーであると受けとめるとき、自分の便宜や損得勘定に関係なしに、互いに相手を神さまからの賜物として
受け入れることができます。神さまからの賜物であれば、パートナーの中には、自分のまだ知らない宝物が常に隠れているはずで、
日々の会話の中に少しずつ現され、発見していくものです。つまり、「結婚式」がゴールなのではなく、それは生涯をかけての
結婚生活の出発点にしかすぎないのです。
   現代の夫婦は日々変化する状況に置かれていますので、毎日、対話によって相手を理解し直す必要があります。その対話は、
たとえ子どもや父母についてであっても、「何をどう対処するか」という事務的な連絡では不十分です。時として「夫婦げんか」
が生じるのは、大抵の場合、物事に対処する上で、男性的な考え方と女性的なそれとが異なるからであり、話し合いでどちらかが
「勝つ」というのは、あり得ないことです。男性は人間性を無視した論理に陥りがちであり、そのため過労死したりもします。
女性は女性で、自分本位の感情に流される傾向があります。ですから、生まれも育ちも異なる男女が一緒に生活する以上、
夫婦げんかは避けることはできません。ならば、夫婦げんかを予防する手段をあれこれ考えるよりは、仲直りする道を体得
すべきでしょう。それには「話し合う」ことは不向きかも知れません。なぜなら「話し合い」こそがケンカの出発点なのですから。
仲直りするには、互いに今でも愛していることを確認すればよいのです。そのためには、結婚の当初から二人だけの間で理解できる、
ケンカを終了させる際の「合い言葉」をあらかじめ決めておくことが肝要です。どのような言葉でも構わないのですが、
子どもが傍らで聞いていても分からないように自然な言葉を使い、内容は、「その話は今は終了。男女の論理が違うのだから、
まとめるのは無理。けれども、わたしはあなたを愛しています」となります。ある若夫婦はケンカ終了の「合い言葉」として、
「ビールにしましょうか」と決めたそうです。互いに完全には理解し得ない男性女性という別々の存在が、愛によって一緒に生活
してゆくのが夫婦というものでしょう。
   結婚を愛そのものである「神さまが結び合わせてくださったもの」と受け入れるとき、離婚・再婚の話はまったく無縁・無用
のものとなります。

--------------------------------------------------------------------------------------------------------------


9月26日 年間第26主日 マルコによる福音 9章38節〜48節

   〔そのとき、〕ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに
従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、
そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。
キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。
  わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方が
はるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない
火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨てて
しまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目が
あなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても
神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
   「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、かなりはっきりと涼しくなりました。スポーツの秋ということで、あちらこちらで
運動会が行われています。隣の幼稚園でも来週の日曜日と月曜日には、コロナ禍の影響を避けるため、3回に分けて運動会を行い、
それぞれ一時間程度のものになるそうです。少人数の方が「自分の子どもの顔がよく見える」とのことで、保護者からは
評判がよいそうです。それでも修道院の小聖堂で朝の黙想をしていると、どの組かは分かりませんが、楽しい音楽と共に、
行進や整列、演技を練習する音が耳に入ってきます。時折、マイクを使って号令をかけている先生の声も聞こえますが、
落ち着いた穏やかな指示がほとんどです。45年程前に修練者としてこちらの修道院で黙想していたときには、先生が
ヒステリックな金切り声を上げて、子どもたちを、指導というよりは、怒鳴り散らしていたのを思い出します。けれども、
怒鳴られても、脅されても、子どもたちの方は何を指導されているのか理解できず、キョトンとしていたようでした。
   さて、今日の福音でイエスさまは、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と弟子たちを諭され、
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」は地獄に投げ込まれ、「地獄では蛆が尽きることも、
火が消えることもない」と語られます。最近の子どもたちは、わたしもそうですが、清潔で安全な生活に慣れていますので、
実際に「蛆」を見たり、「火の中に落ちる」体験を想像するのは難しいかも知れません。テレビ番組の原爆被害者の証言などで、
原爆の炎で皮膚が焼かれ、その後も傷口を蛆が這い回るときの痛みとかを聞くことはあっても、いつしか、想像するのも
難しい話になってしまっています。イエスさまのお話は、別に地獄の状態を分かりやすくわたしたちに説明するためではなく、
むしろ、そこに落ちないために、人を「つまずかせる」ようなことを避けるようにとの教えです。
   第一朗読の民数記では、主がモーセに授けられている霊の一部を七十人の長老たちにも授けられ、その際に彼らと一緒に
いなかった二人の長老にも霊がとどまったという話が述べられています。霊の賜物を授けられるためには、一緒に「いる」
ことが重要なのではなく、同じ「つとめを果たす」ことが重要視されていることが分かります。つまり、「霊」とは、
何か特別な地位を表すためのものではなく、それによって一緒に働くためのものなのです。
   このことを合わせて考えると、イエスさまがおっしゃる「つまずかせる」とは、自分たちと一緒にいないからという理由で
排除することであり、「一緒にいる」基準となっているのが「自分たち」であることから、自分中心に物事を判断すること
と言えます。そして、すべてを自分を中心として考える生活の行き着く先には、地獄の炎が待ち受けていることを示されているのです。
   皆と一緒に行動することは、幼稚園の子どもたちの場合には、社会性を学ぶための基本かも知れません。しかし、大人の
信仰においては、それぞれの生活の場において、たとえ方法は異なっていたとしても、同じ目的地に着くよう努力すること
の方が大切です。コロナ禍において、わたしたちは一緒にミサに与ることや、種々のグループ活動を制限されてきました。
来月になれば緊急事態宣言も解除されて、また新しい方法での礼拝や活動が許されることとなるでしょう。それぞれの場において、
ばらばらでありながらも、同じ目的のために一致できるという体験は、天の国に入るための練習となります。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

9月19日 年間第25主日 マルコによる福音 9章30節〜37節

  〔そのとき、イエスと弟子たちは〕ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
  一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。
「いちばん先になりたいものは、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って
彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる
のである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
  このところ修道院と聖堂裏手のサクラの落ち葉が多いので、朝食が終わると直ぐに落ち葉掃きをしております。
教会ではまだ主日の公開ミサが休止中ですが、教会の駐車場を使って出入りしている隣の幼稚園は、9月に入ると2学期が始まって
います。幼稚園は9時から始まるのですが、8時15分を過ぎると、もう親御さんに連れられて園児たちが次々に登園してきます。
一番乗りはこのところ、お父さんに連れられた園児で、やや得意顔で来ています。他の園児たちがお母さんに連れられて、
下の子どもと一緒に登園してきたりするのと比べて、一番乗りの園児は、お父さんと一緒なので、素人目にも誇らしげな様子に見えます。
  さて、今日の福音では、受難の予告の第二回目が述べられます。第一回目では、ペトロがイエスさまを脇へお連れして、
いさめたので、イエスさまから「サタンよ、引き下がれ。」と叱られました。そのためか今回、弟子たちはイエスさまの
「言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられ」ませんでした。でも、イエスさまの言葉から、いよいよ宣教生活の最終段階に入ったと
感じとった弟子たちは、その直ぐ後で、自分たちの間では、誰が一番偉いかと論じ合っていたのです。十二人の中には、
ガリラヤの漁師出身のグループ(ペトロ、アンドレア、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ)と、ギリシア系の名前を持つグループ
(フィリッポ、バルトロマイ、マタイ、トマス)、そしてその他のグループ(アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
イスカリオテのユダ)がいました。それぞれのグループが争って「誰が一番か」と「権力争い」していたならば、派閥争いを繰り返す
どこかの政党と、あまり変わらない集団に成り下がってしまいます。
  これに対してイエスさまは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられます。
そして一人の子どもを抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。
子どもたちは一般に、自分の力が何をするにも不足しているのを自覚していますし、自分の思いをうまく言い表すこともできません。
特に幼児は、何かを表現しなければならないような困ったことがあると、泣いて周囲からの援助を求めることになります。
また家庭の中では、きょうだいが仲良く遊んでも、途中で誰かが泣き出すと、年上の子が母親から叱られてしまう場面をよく見かけます。
どちらの言い分が正しいかではなく、下の子を「泣かせた」ということで、頭からきめ付けられてしまうのです。また家庭においては、
夫婦でのお互い同士の呼び方が、新婚時代には互いに、はにかみながら「あなた」、「おまえ」と呼んでいたのが、子どもが生まれると、
お互いを「お父さん」、「お母さん」と呼ぶようになります。さらに子どもが成長して結婚し、孫が生まれると、「おじいちゃん」、
「おばあちゃん」となります。これは家庭内で一番幼い子どもが使う呼び方を、大人たちも使用するからです。その子どもが混乱しないように、
大人たちの方が呼び方を変えていくという、とても素晴らしい習慣でしょう。そこには、子どもを中心とした生活、とりわけ
幼い子どもへの思いやり、愛があふれています。
  つまり、イエスさまが子どもを引き合いに出したのは、弟子たちの間では誰が偉いかという議論ではなく、互いに愛し合う
関係が築かれなければならないことを教えられたのです。愛を表すためには、自分の自尊心や体裁、そして「誰が一番か」
などは、忘れていかなければならないでしょう。

---------------------------------------------------------------------------------------------------------------

9月12日 年間第24主日 マルコによる福音 8章27節〜35節

〔そのとき、〕イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。
その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、
三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
しかも、そのことをはっきりとお話しになった。
すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

説教(濱田神父:主任司祭)
この春頃から足腰に神経痛がでて、悩まされております。
「神経痛は年寄りの病気だ」などと、若い頃は自分がそれに悩まされるようになるとは思ってもみませんでした。
まったく、辛く嫌なものですが、もし取り柄があるとすれば、
他人の痛みにも、口先だけでなく共感できるようになったことでしょうか。
さて、今日の福音では、ペトロの「信仰告白」とイエスさまによる「受難の予告」が述べられています。
イエスさまが弟子たちに、「人々は人の子を誰だと言っているか?」とお尋ねになった後、
「それでは、あなたたちはわたしを誰だと言うのか?」と尋ねられると、
ペトロは「あなたは、メシアです」と「信仰告白」しました。
そのことを肯定しながらも、イエスさまは弟子たちに「誰にも話さないように」と戒められます。
でも、そのメシヤ像は、栄光に満ちた王のようなものではありませんでした。
かえって、その宿命として、「長老、祭司長、律法学者たち」、つまり当時のイスラエル社会上層部から「排斥されて殺される」こと、
そして三日の後に復活することを弟子たちにお話しになったのです。
続いて「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言います。
これは現代に生きるわたしたちにも言われていることです。
では、「自分の十字架」とは何でしょうか?
イエスさまは、「長老、祭司長、律法学者たちから排斥される」と言われましたが、
イスラエルの律法に反する者への刑罰は「石殺し」でした。
「十字架刑」はローマ帝国がイスラエルを支配する上で、反抗した者や犯罪者を見せしめとして殺す方法で、
政治犯や殺人犯などの社会的犯罪に対するものであったはずです。
ですから「十字架を背負う」とは、この世を支配する価値観に逆らう生き方であり、この世から反対される生き方です。
このように考えると、実際に政治的弾圧を受けるような状況に生きているのではないとしても、
キリスト者として、人間として、真摯に生きる上での妨げや試練が、わたしたちの周囲にも数多くあることに気づかされます。
パウロは「コロサイの教会への手紙」の中で、
「今やわたしは、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイ1・24)と述べます。
ここにヒントを見ることができるでしょう。
イエスさまは十字架のわざを通して世の救いを成し遂げられたのですから、
それぞれの人間がまず、自分が置かれた状況で、自分の抱える障害や病気を含めた「苦しみ」、
つまりキリスト者として十分に生きる上での妨げとなる事柄を、自分に与えられた「十字架」として受けとめるとき、
その苦しみはキリストの十字架に連なるものとなり、キリストと共にこの世の救いのわざに参加するものとなるのです。
殉教のように大きな決断を迫られる場合だけでなく、日々の平凡な生活の中でも起こり得る、
キリスト者として生きる上での「小さな妨げ」を、神のために、また御国のために耐え忍ぶことができるなら、
自分の十字架を背負ったと言うことができるでしょう。
他方、このように現実に自己の十字架を担っている人々に関心を寄せ、積極的に介護や援助の手を差し伸べることは、
苦しむ人の中に、キリストの姿を見ることにつながります。
それは貧しい人や病気の人に手を差し伸べたイエスさまのわざを継承しているからです。
実に、苦しむ人はその苦しみによって、周囲の人からイエスさまの愛を引き出すことになります。
このように自分の苦しみを担い、また周囲の人の苦しみに気づき、
それに積極的に援助することによって、共に「十字架を背負う」ことができるのです。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------

※5月23日音声メッセージ(松井神父)はこのページの一番下よりご覧ください

 

 

 

Script logo