司祭のメッセージ

12月5日 待降節第2主日 ルカによる福音 3章1節〜6節

  皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポが
イトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が
荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために
悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、
山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
人は皆、神の救いを見る。』」

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
 日本のおとぎ話は大抵、「昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。」で始まります。それは主な
聞き手である子どもたちの空想を引き出すためであり、現実のことではないという前提の上に、荒唐無稽な世界を示すためです。
始まりのことば、「昔々あるところ」とは、具体的な場所と年代を無視した物語であること、また「おじいさんとおばあさん」とは、
子どもたちにとって、とてつもない年寄りとして、やはり想像も付かない経験や物語を暗示します。
これに対して今日の福音箇所は、イエスさまの宣教の先駆者としての洗礼者ヨハネの登場を記すために、当時の皇帝や
領主たちの名前を列挙して、これが実際に起こった事柄であることを示しています。フランシスコ会訳聖書の注釈によりますと、
「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」とは紀元28年頃、「ポンティオ・ピラトがユダヤの総督」であったのが紀元26年から
36年までの10年間、「アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」と記されますが、カイアファは紀元18年から36年までの大祭司、
アンナスはカイアファのしゅうとで、紀元6年から15年までの大祭司でした。けれども、アンナスは紀元15年にローマの支配者によって
更迭された後も、大祭司の称号と権威を持っていたと説明されています。
 この洗礼者ヨハネが活動を開始した場所が「荒れ野」であったことは、20世紀に遺構が発見されたことで有名なクムランでの
エッセネ派を思わせます。エッセネ派は、現代風に言えば、観想修道院のようなもので、世俗の穢れから離れて浄化されることを願い、
社会に関わることなく集団生活している人たちでした。エッセネ派にも入信の浄化儀礼としての「洗礼」がありましたが、その洗礼には、
律法を完全に遵守することを約束できた、比較的裕福な者だけが許されました。これに対して洗礼者ヨハネは、このエッセネ派の元を去って、
「ヨルダン川沿いの地方一帯に行き」、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」のです。
その対象はすべての者であり、律法を完全に守り得る者も、またそうでない者も、悔い改めを願う者すべてに洗礼を授けたのです。
 この洗礼者ヨハネからイエスさまご自身が洗礼者ヨハネから洗礼を受けておられることから(マタイ3・13)、イエスさまも
洗礼者ヨハネの弟子となったこと、そして彼の活動がイエスさまの宣教の手本となり、特別な階級に属さない一般庶民に救いの
メッセージを伝えたと言えます。
このように考えると、イエスさまもわたしたちと同じく、一般庶民の出身であったと推測することができます。

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11月28日 待降節第1主日  ルカによる福音 21章25節〜28節、34節〜36節

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「太陽と月と星に徴が現れる。
地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、
恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。
さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、
いつも目を覚まして祈りなさい。」

説教(主任司祭)
わたしが生まれ育った土地は、東京下町の、いわゆるゼロメートル地帯でしたので、以前は大雨が降ると、直ぐに川の水が溢れて洪水になってしまいました。
大きな台風などが来たときは、軒下あたりまで泥水に浸ってしまうほどでした。
水が引き始めると、大人たちが泥水に浸かった家の後片付けや掃除に追われているのに、
小学生頃のわたしなどは、のんきに、学校が休みになったので、水が引いてしまうまでのしばらくの間、
家の前に流れてきた古い木材を集めて即席の筏を作り、近所の子どもたちと一緒にそれに乗って遊んでいたのを思い出します。
さて、今日から待降節、紫の季節です。イエスさまが再び到来されるのを迎える準備の期間です。
子どもたちは商店街を彩るクリスマスのきらびやかな飾りを見て、サンタクロースからもらうプレゼントへの期待を膨らませていることでしょう。
けれども、待降節の始まりである今日の福音では、「来たるべきその日」が告げられ、
その日には「恐ろしさのあまり気を失う」ほどのことが起きると言われます。
おそらく、罪深い大人たちにとっての話でしょう。子どもたちはそれほど罪深くないので、「恐ろしいこと」があまり想像できないかも知れません。
失う物を持っていない者にとっては、「海がどよめき荒れ狂っ」ても、「天体が揺り動かされ」ても、
大雨で水が溢れてきたときの、かつてのわたしのように、「どんな遊びをしようか?」と、災害をも楽しんでしまうかも知れません。
この世の「正常な」状態といったものを、まだ身につけていないからです。
では、大人たちは一体、何を恐れるのでしょうか? 自然界が動かされることで、「これまでの常識」が通用しなくなることを恐れているのでしょうか?
しかし、前世紀から始まった世界的な気温の上昇により、南極や北極の氷が徐々に溶けて「海がどよめき荒れ狂う」ことや、
海水面が上昇して南洋の島々が水没してしまうこと、大雨が続いたり、反対に干ばつが続いたりということは、
既に現実として世界の各地に起きています。地球規模の気温の上昇は、
エネルギー資源を使い果たしてまで、自分たちの生活の快適さを求め続けたいという「人々の欲望」が原因となってもたらされたものと言えます。
このように考えると、今日の福音が教える「来たるべきその日」は、人々の果てしない欲望から考えると、
わたしたちの生活の中で既に始まっているとも言えます。
それゆえ、「その日」が、やがていつかは来るのを避けられないものとして、何もせずに迎えるだけなのか、
あるいは、今の生活態度を改めて、何とか、少しでもこれに備え始めようとするのかは、今の大人であるわたしたちにかかっています。
豊かな自然・天然資源というものは、わたしたちの世代で使い果たして良いものではなく、
実は、次の子どもたちの世代から「前借りしている」に過ぎず、今の世代の人間は、これをできるだけ損なわないようにして、
子どもたちの世代に返さなければならないと言うことができます。
「待降節」は、今わたしたちが「当たり前」のようにして受けている生活を、感謝と信仰の目で見直さなければならない季節なのです。

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11月21日 王であるキリスト(祭日)ヨハネによる福音 18章33b節〜37節

〔そのとき、ピラトはイエスに、〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。
それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
イエスはお答えになった。
「わたしの国は、この世には属していない。
もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。
しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。
「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、
そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

説教(主任司祭)
20年程前、フランク永井という歌手による「赤ちゃんは王様だ」という歌がありました。
「赤ちゃんは王様だ 裸の王様だ 笑ったら王様だ泣いていたって王様だ
やってこい飛んでこい こうのとりといっしょに やってこい飛んでこい おもちゃといっしょに。」という歌でした。
赤ちゃんは家庭で一番小さな存在なのに、一番大切にされる存在です。だから王様のようだと言うのです。
確かに、家族は赤ちゃんを中心に動くことになりますが、それは赤ちゃんが周囲の者から愛を引き出しているからでしょう。
良く似ているのがオーケストラの指揮者です。
指揮者は通常、自分ではどの楽器も演奏しませんが、すべての楽器の音を集めて美しいハーモニーを造り上げます。
それはすべての奏者が、共通のハーモニーを目指しているからです。
今日は典礼年の最後の日曜日、「王であるキリスト」の祭日です。
イエスさまがわたしたちの王であることを信仰告白して一年を締めくくります。
もちろん、救い主キリストであるイエスさまが、中世や近世の王様のように、自分の意のままに周囲の臣下を動かす権力を持っているというのではなく、
オーケストラの指揮者のように、最終的には天地万物のすべてを一つに集めて、すべてのものを罪の束縛から解放する方であることを表すものです。
ですから、その王国の完成はこの世に既に存在するするものではなく、終わりの日に初めて実現されるものです。
「赤ちゃんは王様だ」という場合、周囲の大人たちの方が、何事にも赤ちゃんを中心に生活しなければなりません。
また、オーケストラの指揮者の場合は、すべての奏者が、絶えず指揮者に注意を集めて演奏しなければならないことが必要です。
これらに対してイエスさまの場合は、ご自分をとおして実現される奇跡や教えによって、ご自分を遣わされた御父の存在を明らかになさいました。
それはご自分に人々の注意を集めるためのものではありません。
たとえて言えば、透明な窓ガラスが一点の曇りもないように磨かれて、その存在自体も気づかれなくなったとき、
窓ガラスの向こうにある景色がはっきりと見え、陽の光もあたたかに差し込むことができるようになるようなものです。
これとは対象的に、自分を際立たせるステンドグラスは、その芸術性はともかく、陽の光とあたたかさを人々からさえぎって吸収してしまい、
人の眼を自分に止めようとします。
このように、イエスさまがご自分を無にすることは、透明な窓ガラスのように、人々の眼がご自分の姿に留まることなく御父を仰ぎ見るよう向けさせ、
御父の慈愛が人々に豊かに注がれるようになるためなのです。
そしてその結果、すべての人の救いのために、ご自分を十字架上での生け贄として献げたのです。
「王であるキリスト」とは、このように、ご自分を無になさったイエスさまの姿こそが、わたしたちの模範であり、
わたしたちが生活をとおして神の愛を人々に伝えるように招かれていることを信仰告白するものです。

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11月14日 年間第33主日 マルコによる福音 13章24節〜32節

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
「それらの日には、このような苦難の後、
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、
彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
いちじくの木から教えを学びなさい。
枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない
その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。
父だけがご存じである。」

説教(主任司祭)
朝晩が冷えるようになり、やっと本格的な秋が訪れました。そろそろ霜柱も立つ頃となったのです。
修道院におけるわたしの仕事としては、庭の落ち葉掃きが主になりました。
まだ痛む右足を引きずりながらやっております。多くの方にお手伝いしていただき、とても感謝しています。
先週の金曜日(12日)は幼稚園児の七五三の祝福をし、今日(14日)は、教会での七五三の祝福です。
子どもたちの成長をお祝いしたいと思っております。
とても元気な子どもたちと比べると、怪我をしたり、いろいろと助けてもらったりして、やはり自分も高齢者の一員になったのだなという、
感慨というか、嘆きといったものを感じながら、でも、心のどこかでは、「だから何だと言うんだ!」という、一種の開き直りのようなものを覚えます。
人間は誰しも、いつかは必ずこの世の生を終えて、神さまのもとに召されるのですが、
それは生まれた順番通りに召されるのでも、どのような人生を送ったかという優劣でもないようです。
俗に言う「佳人薄命」とか、「憎まれっ子世にはばかる」という言葉も、これを表現しているのでしょう。
確かに、年を重ねれば重ねるほどこの世から離れる可能性は高まりますが、けれどもそれは、確実性とは異なるものです。
また、だからと言って、自分の好き勝手に人生を送っても良いなどということではなく、
あくまでも人間としての良心に基づいた生を貫きたいものです。
さて福音では、イエスさまが天地の終わりのときについて語っておられます。
「その日、その時」はだれも知らないものでありながら、必ずやってくる「終わりの日」です。
ここで注意しなければならないのは、イエスさまの語り口が当時のイスラエル政情を背景としている点です。
宗教的にはファリサイ派とか、祭司たち、律法学者たちと対立していることが福音書にしばしば描かれていますが、
それらはすべて、ローマ帝国の支配という政治的状況に置かれていました。
「世の終わり」は、今日の福音では「太陽は暗くなり、月は光を放たず・・・」といった宇宙的現象で表現されていますが、
それは「ローマ帝国による支配の終焉」を示すための表現なのです。
もし、あからさまに「ローマ帝国の支配の終わり」と言えば、ローマに対する反乱を企て、煽動する者とされて、
たちまち捕らえられ、処刑されてしまっていたでしょう。
では、イエスさまの教えの中心は何だったのでしょうか? 「いちじくの木から教えを学びなさい」と言われています。
絶対的な力を持っているように見えるローマ帝国の支配も、季節が移り変わるように、やがては終わりを迎えること、
そして社会情勢の変化よりも先に、いつ終わるかも知れないわたしたちの人生の有限性に気づかなければならないことです。
今の信仰態度のままで人生を終えても良いのでしょうか。
残された時間が長いのか短いのか、どれほど残っているのか、残念ながら、だれも知ることができないのです。
ただ、普段から心の備えをしておけるだけです。

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11月7日 年間第32主日  マルコによる福音 12章38節〜44節
〔そのとき、〕
《イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、
広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの
長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」》
  イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて
言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
  11月に入って良い天気が続き、隣のフランソア幼稚園の子どもたちが担任の先生に連れられて、教会の駐車場や修道院の
内庭で落ち葉拾いをしています。でも、それは掃除のためではなく、それぞれ形の良い落ち葉を探し、気に入ったものを
見つけて何かの工作に使うようです。落ち葉には、まだ緑が大部分のまま枝先を離れたものや、先っぽまで赤や黄色に染まった
もの、ところどころ斑点になったり、虫に喰われたものなど、いろいろとあります。無関係な大人のわたしなどにしてみれば、
何の変哲もない「ただの落ち葉」なのですが、子どもたちにしてみれば、「宝石」のような「神さまの芸術品」なのでしょう。
その芸術品を鑑賞できるほどに清い澄んだ瞳は、わたしの眼からは、とうの昔に消え失せてしまっていたことに気づかされます。
子どもたちの目の輝きは、神さまのお見通しになる、自然本来の姿・価値を映せるようです。
  さて福音では、イエスさまは「賽銭箱の向かいに座って」人々が献金する様子を見ておられます。「向かいに座る」ということは、
至聖所側から、つまり神さまの立場で見ておられることになります。そこでは「大勢の金持ちがたくさん入れていた」のに、
一人の貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を入れると、イエスさまは、「この貧しいやもめは、乏しい中から自分の持っている
物をすべて、生活費を全部入れた」と言われます。レプトン銅貨2枚とは、今日の日本では150円ほどの金額となります。
このやもめの貧しさは、おそらく彼女の身なりから分かったことでしょう。当時の「賽銭箱」は、上部が小さく底辺が広い円錐形で、
通称「ラッパ」と呼ばれていたそうです。これはわたしの勝手な連想ですが、別の箇所でイエスさまは、「施しをする時には、
偽善者たちが人から賞賛されようとして、会堂や大通りでするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」(マタイ6・2)
と言われます。施しをするときに「ラッパを吹き鳴らす」習慣は、他の書物にも記録がありませんので、これは賽銭箱のラッパ形の
投入口を、賽銭で鳴らすことから来たのかも知れません。ともあれ、賽銭箱には目的別にラッパの形をした投入口があり、
そこにたくさんの献金を入れると大きな音が響き、反対に少ないと、ほとんど聞こえないようなかすかな音となったようです。
献金の多さは、その音色で判断できたのでしょう。
  このように他人のものと比べれば、ごくわずかな金額であっても、もしイエスさまのお言葉通りならば、生活費を全部献金して
しまったこのやもめは、その後、一体どうやって生活するつもりだったのでしょうか? おそらく、既にわずかしか残っておらず、
その先、もうどうにも生活できないので、かえってそれをすべて献金することによって、神にまったく命を任せようとしたことが
分かります。神さまの計らいによって自分が生き続けられるか、それとも死ぬかを賭けた、命の瀬戸際の献金だったのです。
福音書には記されていませんが、おそらくイエスさまは、何らかの人間的な手立て、あるいは奇跡をもって、やもめのその後の
生活を計らわれただろうと思われます。なぜなら、聖書の別の箇所では、ベテスダの池で38年間も病気にかかっている人を
癒やした後、イエスさまは神殿の境内でその人を見つけて声を掛けて安否を尋ねておられるからです(ヨハネ5章)。
  その「貧しいやもめ」の真剣さは、他人と比較できる金額で測れるものではなく、神さまにすがるしかないという切羽詰まった
状況にあって、生活費をすべて献金するという行為に表された信仰の深さなのです。つまり、イエスさまご自身がまず彼女の
真の意図を汲み取り、そして弟子たちにこの「貧しいやもめ」を手本にして教えようとなされたのは、深い信頼を込めて自分の
すべてを献げるとき、神さまは必ずそれを受け入れ、さらに豊かな恵みで包んでくださるということです。わたしたちもこの
「貧しいやもめの献金」から、神さまへの信頼という真の価値を学ばなければならないでしょう。

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10月31日 年間第31主日 マルコによる福音 12章28節b〜34節

〔そのとき、一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。〕
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、
どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。
もはや、あえて質問する者はなかった。

説教(主任司祭)
今日の福音では、一人の律法学者がイエスさまに「どれが第一の掟か」と尋ねています。
わたしが受けた昔の公教要理では、「天主の十戒」が最も大切な掟であるかのように教えられていました。
確かに、「わたしは、あなたの主なる神である。わたしのほか、だれをも神としてはいけない」(1972年版)という掟は、
イエスさまが第一の掟として挙げられた「わたしたちの神である主は、唯一の神である」というのに似ています。
「十戒」は「十」の「戒め」なのですが、元来「十」という数は、一つ、二つと数えていって10個あったからというより、
「十」という数で「完全」となるからという象徴的な理由だと思われます。
小さな子どもが指を折って何かを数えるときに、右手で五つ、さらに左手で五つを数えて、
それ以上は数えられなくなるという原始的な意味は直ぐに理解されます。
仏教にも「十戒」というのがあり、出家した者だけに課される「五戒」と、在家の者にも課される「五戒」を合わせて「十戒」とするそうです。
また数学で宇宙の原理を解き明かそうとした古代ギリシア人は、数字の最初の1,2,3,4を合計すると10になるとしてます。
これによると「1」は唯一の世界を表し、「2」は男女、あるいは光と闇というような二つの原理、
「3」は過去・現在・未来という時制、「4」は火・水・金属・土という当時考えられていた物質を形成する元素を表すそうです。
いずれにしましても、「十戒」とは「ひとまとまりになった完全な掟」を意味し、
それは神さまの言葉である聖書全体を意味していましたので、聖書のどこに記されており、
また、どれが第一で、どれが第二か、といった問題はありませんでした。
中世になり、「十戒」についてのヘブライ語本来の意味が分からなくなってから、聖書のどこに記されているかを特定するようになったと思われます。
それはおそらく聖アウグスティヌスの時代頃(5世紀)だと思われます。
つまり、イエスさまの時代には、かつての公教要理で暗記させられたようには、「十の戒め」など、まだ詳しくは定められていなかったのです。
イエスさまの時代には、もちろん神さまから与えられた掟の総体という意味が分かっていました。
ですから律法学者が、どれが第一かと質問したのです。
それでイエスさまは、聖書全体を通して語られている「神を愛すること」が第一であり、
そして第二のものとして「隣人を自分自身のように愛すること」を教えられたのです。
この二つの掟は表裏一体のものとして、イエスさまご自身が実践され、生涯をかけてわたしたちに示されました。
神を愛するとは人の内的な行為です。それを外的にも見える形で表すものが隣人愛です。
言い換えれば、神を信じているなら、その内的信仰は公的礼拝という見える形に現れるものであり、
さらには隣人愛の実践に現れてくるのです。
わたしたちキリスト教徒の特徴である「神への愛」と「隣人愛」とを実践するよう心掛けましょう。
 

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10月24日 年間第30主日   マルコによる福音 10章46節〜52節

  イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという
盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れん
でください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを
憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで
言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、
なお道を進まれるイエスに従った。

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
 明治になり、キリスト教の再宣教が始まってから、日本人最初のフランシスコ会員司祭となったのは、武宮雷吾神父様
でした。東京の築地教会出身で、生粋の江戸っ子です。ドイツに送られて司祭となって帰国した後、生涯を北海道での
宣教司牧に献げました。教会付属の幼稚園に来る子どもたちにはとても優しい方で、園長室兼主任司祭室のドアの取っ手は、
幼稚園児でも届くようにと、床から60cmほど高さに付けられていました。大人の信者にはとても不便な高さです。しかし、
子どもに優しいのとは反対に、後輩のフランシスコ会員司祭や神学生、そして大人の信徒には厳しい方でした。例えば、
昨年12月に亡くなられた戸田三千雄神父様など、すでに司祭になっていましたが、武宮神父様が神学生になさる講話を
聞きたいと思っていました。しかし、先に修道院長から頼まれた用事をしたため、講話が行われている教室に遅刻して
しまいました。恐る恐る後ろから入ったのですが、「講話に遅刻するとは何事か!」と、あまりに大きな声で怒鳴られた
ので、気を失って倒れてしまったと聞いております。そんな厳しい武宮神父様ですが、子どもたちには時々、「オレ
は神さまよりも偉いんだぞ」と「うそぶく」ことがありました。ギョッとさせられる言葉ですが、どういう意味かと言えば、
武宮神父様が祈ると、どんな願いでも聞き入られるからだそうです。だから、神さまに命令しているようなものだとの
ことでした。神さまが常に祈りを聞いてくださることに、絶対の信頼を置いていたのです。
 さて、今日の福音では、イエスさまがエリコを出て行かれるとき、物乞いをしていたバルティマイという盲人の目を
見えるようにします。イエスさまは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。どこに彼の信仰が現れている
のでしょうか? バルティマイは道端で物乞いをしていただけなのですが、大勢の人が通る音を聞き、それがナザレの
イエスさまに付き従う人々だと分かると、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください!」と叫び出します。
イエスさまが彼をお呼びになると、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」イエスさまのところに来ます。彼は物乞いをする
くらいですから、お金も財産も持っていなかったでしょう。しかし、ただ一つ、夜寝る時にも使う上着だけがありました。
それを脱ぎ捨ててイエスさまのところに行ったのです。つまり、イエスさまのところに行きさえすれば、必ず目が見える
ようにして下さると信じていたのです。もし、目が見えるようにされなければ、脱ぎ捨てた上着は誰かに盗まれてしまう
かも知れません。その日の夜から、安らかに寝ることも出来なくなってしまうかも知れなかったのです。
 持っている物をすべて投げ打って、主の元に近づくという態度が、彼のイエスさまへの信仰を表していたのです。
見方を変えれば、イエスさまの方が、この盲人の信仰に圧倒されて「負けてしまった」とも言えます。これほどの
信仰が示されるとき、おそらく神さまも「お手上げ」になったのでしょう。
 「オレは神さまよりも偉いんだぞ」と、うそぶくことが出来るほどの信仰を養いたいものです。

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10月17日 年間第29主日 マルコによる福音 10章35節〜45節


〔そのとき、〕《ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。
「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。
「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受ける
ことができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。
「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、》
イエスは『十二人』を呼び寄せて言われた。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうではない。
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

主任司祭説教
今日の福音では、ヤコブとヨハネ以外の十人の者は、「ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とされます。
弟子たちは皆、イエスさまがエルサレムに入ったならば、新たな王国を始め、王となるだろうと期待していたのです。
ところが、弟子のヤコブとヨハネはほかの者たちよりも先に、イエスさまが「栄光を受けたときに、その右と左に座らせてください」
と願ったのです。つまり、イエスさまが王座に就いたら、その右大臣と左大臣にしてもらう約束を得ようとしたのです。
ほかの十人にしてみれば、これは抜け駆けの行為であり、彼らを出し抜こうとするものでした。これに腹を立て始める
ということは、彼らもまた、同じ願望を持っていたことを示します。
ただ、ヤコブとヨハネの方が、早く正直にそれを口に出しただけなのです。
しかし、イエスさまは、弟子たちの間では、上になりたい者は、皆に仕える者になり、すべての人の僕になるように諭されます。
なぜなら、イエスさまがエルサレムで成し遂げられようとされているのは、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」
ことだからです。イエスさまが弟子のヤコブとヨハネに願われたときに、彼らの覚悟を確かめられた「わたしが飲む杯を飲み、
わたしが受ける洗礼を受ける」こととは、イエスさまご自身が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けて宣教を開始され、また十字架上の
死でその宣教を終えられるをことを暗示しています。最後の晩さんにおいてイエスさまは、ぶどう酒の満ちた杯をとり、
これはわたしの血の杯であると宣言されました。十字架上での死そのものが「杯」という語に表されています。ですから、
洗礼と杯は、イエスさまの宣教活動全体を現すことになります。そして、その宣教の内容とは「皆に仕える者になり、
すべての人の僕になる」という、この世での価値や権力とはまったく異なるものです。このことは、十二人の弟子たちだけに
言われたのではなく、すべての時代の、すべての弟子、つまり、わたしたちにも言われていることです。なぜなら、
わたしたちもまた、洗礼によってキリスト者となり、神の子として新たに誕生した以上、生涯をかけてイエスさまの教えを
宣べ伝える者とされているからです。これを誠実に実践できた人は、教会から信仰の手本として、殉教者あるいは証聖者である
「聖人」として称えられる人たちです。その人たちは殉教することによって、また生涯を教えに捧げることによってこれを完成
しました。ちなみに、ヤコブは十二人の中で最初に殉教した弟子であり、他方のヨハネは、十二人の中で最後まで生きながらえ、
独身生活を貫いて証しを立てた弟子です。つまり、イエスさまのお言葉通りに、二人はその後、イエスさまの杯を飲み、
洗礼を受けることになったのです。
わたしたちもまた、彼らに倣い、殉教の方はともかくとして、日々の生活で証しを立てたいものです。

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10月10日 年間第28主日 マルコによる福音 10章17節〜30節

〔そのとき、〕イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、
何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、
「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積む
ことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を
持っていたからである。
   イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて
驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、
らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
   《ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。
「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、
迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」》

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
   この前の水曜日に、何人かのご婦人方に手伝っていただいて、修道院の庭にある柿の実の収穫をしました。甘柿の方は、
熟したものから鳥さんたちに突かれてしまい、赤く大きいものはすべて、傷物にされていたのですが、渋柿の方は、鳥さんたちも
遠慮してくれたためか、立派に赤くなったものが多く枝に残っていました。葉もほとんど落ちているので、木の下からでも
見つけるのは簡単です。脚立に上って実のついた枝を切り取ったのは専らわたしで、ご婦人方には脚立を支えてもらったり、
取った実の小枝を払ったり、渋抜きをお願いしました。収穫も順調に進み、一番高い所あたりにある、四つほど一緒に「鈴なり」
になった枝を収穫しようとして欲張って切り取った途端、「鈴なり」になった柿の重みでバランスを崩してしまいました。
幸い、ご婦人方に足や胴を押さえてもらい、事なきを得ました。けれどもここで終了です。柿の収穫より、自分が落ちて怪我を
してしまっては元も子もありません。おおよそ一時間の作業でした。それにしても、加齢と運動不足のために身体が固くなっていて、
思うように動かせないのには困ったものです。神の国に入るには、さらに身体と心の柔軟性が必要とされるからです。
   さて、今日の福音箇所でイエスさまは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と仰せになります。
これを聞いて弟子たちは「それでは、一体だれが救われるのだろうか」と互いに言ったとのことですが、これを聞いて、あわてて
ダイエットを始めなければならないほどのお金持ちは、このミサにはそう沢山はいらしていないと思います。
  イエスさまが使われた「らくだ」と「針の穴」の比較について、ある解説者によると、「らくだ」は当時、エジプトや
メソポタミアなどの遠くから、はるばる砂漠を越えて荷物を運ぶために使われた代表的な動物で、「針の穴」とはエルサレム城壁に
あった門のうち、一番小さな通用門のニックネームだったそうです。その通用門が人間の背丈ほどの大きしかなかったため、
ここを荷物を積んだ「らくだ」を通そうとすると、門が小さすぎるため、「らくだ」から荷物を降ろしたうえで、頭を垂れさせ、
膝を屈めさせなければならません。でも、頭を垂れ膝を屈めた「らくだ」は、自分で歩くことができず、「らくだ」がせっかく
運んできてくれた荷物は、結局、持ち主が背負って運ばなければなりません。運び込もうとする荷物が多ければ多いほど、
その苦労が大きくなってしまいます。荷物など一切持たない小さな子どもたちは、この門をらくらくと通ることができ、
おそらく、荷物を持った大人たちは大変だなと思ったことでしょう。
 エルサレム城壁の「針の穴」は、神の国に入るための「狭き門」です。イエスさまはご自分を羊が出入りする門だと
述べられています。この門とはつまり、イエスさまご自身、あるいはイエスさまの教えのことであり、その門を通って神の国に
至るためには、教えに対して素直に頭をたれ、謙遜に膝を屈めて、何も持たない子どものようにならなければならないのです。

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※5月23日音声メッセージ(松井神父)はこのページの一番下よりご覧ください

 

 

 

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