司祭のメッセージ

6月20日 年間第12主日 マルコによる福音 4章35節〜41節

   その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、
イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほど
であった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちが
おぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。
すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは
非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
  5月から6月にかけては、真夏日のような暑さがつづき、あわてて信徒の皆さんに聖堂の扇風機を出してもらったのですが、
先週あたりからは梅雨入りしたようで、曇り空が続き、少し肌寒くなりました。せっかくの扇風機も聖堂脇に待機して
もらっている状態です。何歳になっても、季節の変わり目に体調を合わせるのが大変ですね。
  さて、今日の福音には、イエスさまが、風を叱り、湖に「黙れ」と仰せになると、「風はやみ、すっかり凪になった」
と記されています。イエスさまには、自然をも動かす力が備わっていたことを示しています。
 不思議なのは弟子たちです。おそらくイエスさまは舟に乗るまで、休む暇も寝る時間も無く、人々に教えておられたので、
すっかり疲れて、舟の中で寝入ってしまったのに、弟子たちは、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」と言って、
無理に起こそうとしています。イエスさまは、当時の弟子たちからは、ナザレの大工であるヨゼフさまの息子と思われていました。
  また一方、弟子たちの間には、ペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネなど、ガリラヤ湖の漁師だった者たちがいました。
湖についてや、舟のことは、「大工の息子」よりも、現役の漁師の方が良く知っていたはずです。ですから、弟子たちのことばは、
イエスさまに「なんとかして欲しい」とより頼むために、優しく起こそうとしたのではなく、「そんなところで、いつまでも
寝ていると、溺れてしまうぞ!」という、強い脅しの意味で、イエスさまに緊急事態を知らせただけだと思われます。
  しかし、イエスさまは起き上がると、風や波を鎮めます。神の御子であるからこそ、イエスさまには、このような力が備わって
いたのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とのことばは、イエスさまが「神の御子であることを信じないのか」
という意味だけでなく、自分たちの間にいる「ガリラヤ湖の漁師たちの技量を信じないのか」という意味にも取れます。
そう考えると、イエスさまをあわてて起こしたのは、漁師出身の弟子ではなく、他の弟子たちだったと考えられます。
弟子たちが互いに信頼し、協力し合えば、自分たちだけで何とかできることを知っておられたからこそ、イエスさまは
ゆっくりと艫の方で寝ておられたのではないでしょうか?
  また、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とのことばは、その当時の弟子たちにだけでなく、現代に生きる
わたしたちにも向けられています。いろいろな災害や紛争、コロナウイルス感染症など、わたしたちを取り巻く現代の情勢には、
わたしたちが「この荒波に飲み込まれてしまうのではないか」と怯(おび)えさせるものがいくつもあります。
そんな中で、イエスさまに「助けてください!」とすがりたいわたしたちですが、いつも共にいてくださるイエスさまは、
わたしたちが互いに信じて、協力し合えば、ほとんどのことは解決できるはずだと教えておられるのです。
解決できないものがあるとすれば、それはおそらく「不信仰」という闇だけでしょう。
信仰の恵みをすべての人のために祈りたいものです。

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6月13日 年間第11主日 (初聖体) マルコによる福音 4章26節〜34節

〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、
種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、
そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
   更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえような。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。
土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れる
ほど大きな枝を張る。」
  イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、
御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
  今日、北浦和教会では、3人の子どもたちの初聖体を祝います。本来ならば、「キリストの聖体」の祭日でお祝いしたかったのですが、
先週は65歳以上のCグループのミサ参加だったため、今週に延期されました。これもコロナの影響であり、試練として受けとめるべきでしょう。
さて今日の福音では、神の国について、イエスさまは、種まきのたとえ話で語られました。蒔かれた種が、どのように成長するか、
あるいは、どれほどまでに成長するかは、蒔く人にはわからないと言われます。まさに、人間の子どもの成長もこれに似ています。
赤ちゃんがどのように胎に宿るかは、昔から常に大きな神秘に満ちています。しかし、今も昔も、誕生すると直ぐに、やれミルクだ、
やれ「おしめ」だと、赤ちゃんの泣く声に翻弄され、両親は一日中振り回されていきます。赤ちゃんは無事に育つと、ハイハイを終えて
立って歩くようになり、そのうちに幼稚園に入り、また学校に入るようになります。両親や祖父母たちが、子どもの成長を考えて、
新たな衣服を買い揃えたとしても、2か月、3か月もすれば、すぐに小さくなり、もう着られなくなってしまうようです。また両親は、
子どもの将来と家計を秤にかけて、どのような習い事を、いつ頃から始めるのが良いか、あるいは当人の才能と好みを見極めてからに
すべきかと、子どもが寝入ってから、いつもソロバンを片手に頭を悩ませているようです。しかし、どれほど両親が期待し、
心配したとしても、当の子どもは、いつもそれを裏切るスピードと方向に成長していきます。
   教会も、ある意味で、お父さん、お母さんたちと同じように、この子どもたちの霊的成長に期待し、心配しています。
それぞれのご家庭に誕生し、それぞれに洗礼の秘跡を受けた子どもたちですが、今日は一緒に初聖体を受け、これからは小さいながらも、
一人前の信徒として扱われることになります。具体的には、主日のミサの中での侍者奉仕ができるようになり、また実際にこれからは、
主任司祭の立場からも、「よろしくお願いします」と申し上げます。侍者奉仕をするということは、司式者団の一員に加わり、
一緒にミサを捧げる立場に置かれることで、信徒として能動的にミサに参加することになります。
   イエスさまは、これを使ってわたしたちに「神の国」の秘義を教えておられるのです。
「神の国」は劇的な出来事を通して実現されるのでも、また、一瞬に変化を遂げる「魔法のことば」でもたらされるものでもありません。
子どもたちが日々成長してゆくように、さまざまな人や事柄を巻き込みながら、そして関わる人々も、それとは気づかないうちに発展し、
成し遂げられていくのです。つまり、わたしたちの日々の歩みそのものが、「神の国」への歩みであり、実現していくものです。
   今日、初聖体を受ける子どもたちは、この先、信徒としても成長し続けます。これからの段階としては、堅信の秘跡を受け、
成人して良いパートナーと巡り会えば、結婚の秘跡を受け、年ごとにゆるしの秘跡で、また病に陥ったときは、病者の塗油の秘跡で
強められます。また、もしかすると、神さまから召し出されて、叙階の秘跡を受けたり、修道誓願を立てるようになるかも知れません。
このように、信徒としての成長は、天国に至るまで続くはずのもので、今日の初聖体は、ある意味で子どもたちの信仰生活上のスタートです。
子どもたちを見守る周囲の大人たちも、この子たちの手本となれるように気を引き締めなければなりません。わたしたちの日々の歩みそのものが、
「神の国」の実現を目指すものとなりますように。

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6月6日 キリストの聖体 (祭日) マルコによる福音 14章12節〜16節、22節〜26節

   除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、
どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。
「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の
主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』
すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」
弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
    一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。
「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。
彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、
契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことは
もう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
   先週の日曜日と月曜日にはカラス騒ぎがあって、主日のミサ後や、丁度、ご葬儀のために黒の喪服で集まった人間に、
黒いカラスが襲いかかるという、なんとも笑えない話になりました。子育ての季節には、動物たちも神経質になるようですね。
信徒の方だけでなく、葬儀社の方や、幼稚園で体操を教えている男の先生もカラスにつつかれて、頭や手から血を流し、
転んだ拍子に服を破く事態になりました。その影響もあって、先週から、幼稚園児の登園・降園には、幼稚園の東側と
教会の駐車場側の出入り口も使って、なるべくカラスを刺激しないようにしています。ご協力ください。
   さて、6月に入り、世間では「ジューン・ブライド」と言って、例年ですと結婚なさる方が多いようです。
6月の英語名が "June" 、つまり、ギリシア神話の神々の王であるゼウスの妻ジューノから名付けられ、この月に
結婚する女性がジューノによって祝福され、健康と幸せを豊かに受けるという縁起担ぎからきたものです。
「結婚式」というと日本では、教会や神社で挙式はしても、どちらかというと披露宴やパーティーがその中心でした。
一般のホテルや式場でも、結婚披露宴が短時間で収益の上がる「稼ぎ頭」だったそうですが、コロナ禍の影響で、
披露宴の自粛どころか、職場自体を失った若い世代が多くあり、結婚できる方が少なくなったようです。
  今日の福音では、いわゆる「最後の晩さん」が述べられ、イエスさまがパンとぶどう酒を使って、ご聖体を制定された
様子が描かれます。ルカによる福音書(24章13節〜35節)には、エマオに向かう弟子たちが、パンを裂かれたときに、
途中で道連れになったのがイエスさまだと分かったと記されおり、イエスさまが以前から食事の際にはパンを裂いて
弟子たちに渡す際に、独特のやり方、流儀があったと思われるのですが、どのような仕草であったかは伝承されていません。
また、本当に「最後」であったかどうかについても、疑問を投げかける学者もあります。
  しかし、教会が「最後の晩さん」とするのは、時間の前後ではなく、イエスさまの地上での宣教生活の総決算を
意味するからです。そこでは、一緒に食事をすることよりも、「キリストの体」を拝領すること、イエスさまの
宣教生活を自分のものにすることが強調されています。
   この場合「体」とは、霊魂や心と別個に捕らえられるとき、その人の思いや考え、その人の内面における性格や感情を、
外部の世界に直接、それこそ「具体的」に、つまり「体を具えて」表すものです。そのため、イエスさまの体を
「拝領」することを通して、自分たちの方が反対に、イエスさまに「拝領」されて「同化」され、イエスさまの体、
手足となっていくこと、つまりイエスさまの「心」である「愛のわざ」をこの地上で継続し、実現してゆくという
弟子たちの使命が示されています。
   ほんのひとかけらのパンによってわたしたちが満たされるのは、実にイエスさまがご聖体に現存されるからです。
そのことによってわたしたちは、ミサ以外でもご聖体を礼拝し、霊的に一致することができるようになります。
わたしたちの間に来られ、わたしたちの内に今もおられ、わたしたちを強めてくださるイエスさまのご聖体です。
この偉大な秘跡に感謝しましょう

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5月30日 三位一体の主日  マタイによる福音 28章16節〜20節
〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

説教(主任司祭)
 聖霊降臨祭をもって復活節が終了し、典礼的には「年間」となりました。
聖霊降臨後の最初の日曜日は、神さまご自身に捧げられた祭日、三位一体の主日です。
御父・御子・聖霊である神さまをお祝いします。
実は、「三位一体」という用語の中で、「位」や「体」は日本や中国などの漢字圏での単位を示す語で、
西洋の用語には存在しません。
「位」や「体」は、霊的なものを表すための単位なので、あえて加える必要は無く、
平たく言えば「三つでありながら一つの神」となります。
なぜ「三つ」なのかと言えば、わたしたち人間が、御父、御子イエス、聖霊に対して、別々に呼びかけられるからであり、
なぜ「一つ」かと言えば、唯一の神、人間側からの勝手にはならない絶対他者である神を表すからです。
(複数であれば「多神教」となり、季節や生活の営みに合わせた「神々」となってしまいます。つまり、人間が神々を認める宗教となるのです。)
この唯一の神さまを考えてみれば、御父は永遠の愛の源泉であり、万物の創造主である方です。
「みことば」である御子イエスさまは、御父の愛を人間に啓示してくださった方、
そして、信じる者たちに働いて信者同士を結び合わせ、御父・御子の愛の交わりに人間を与らせ、
信じる者たちに神のわざを実践させてくださるのが聖霊です。
したがって、「三位一体」という語は、わたしたちが信じている神さまがどのような方であるかを、
あたかも外部から客観的に眺めて述べた語ではなく、神さまの愛の交わりにわたしたちも招かれ、巻き込まれていくというダイナミックな描写なのです。
しかし、わたしたちがどのように神さまを描写してみても、どのような言葉で表現してみても、結局の所、
それは人間の理解力、言葉による表現の限界によって、常に不完全なものに留まります。
神さまが、実際にどのような方であるのかは、生きているわたしたちが、完全には理解することはないでしょう。
神さまの世界から来られた方、つまり、イエスさまのみが、これをわたしたちに啓示することがおできになるだけです。
今日の福音箇所では、復活したイエスさまが弟子たちと、「ガリラヤ」でお会いになることが言われます。
「ガリラヤ」とはペトロやアンドレアなどの出身地を示すと同時に、彼らがイエスさまと最初に出会った地です。
「ガリラヤに行け」という命令は、復活した方に出会うために、自分がイエスさまと出会った、
そもそもの場に戻れという命令であり、今風の言葉遣いでは、「原点に帰れ」という意味になります。
原点に帰って自分の信仰を振り返るとき、自分のこれからの信仰の姿を見定めることができるのです。
そのためには、イエスさまが弟子たちに命じられたように、自ら福音を宣べ伝えてみることです。
そうすれば、自分の行った宣教のわざによって、かえって自分自身が宣教されるという体験が得られるはずです。
わたしたちの行いが神さまの愛を表すものとなれるのは、
父と子と聖霊である唯一の神が、常にわたしたちに寄り添ってくださるからです。

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5月23日 聖霊降臨の主日      ヨハネによる福音 15章26・27節、16章12節〜15節

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、
すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、
初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、
あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく
悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げる
からである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、
あなたがたに告げる』と言ったのである。」

主任司祭 の 説教(濱田神父)
   昔、宣教師から聞いた話です。ある信者の家庭を訪問したところ、その家の小学生の子どもが、「神父さん!
神さまは本当にいるんだよね?」と真剣な顔をして尋ねて来たそうです。どうやら、その子は信者だということで、
学校で友達から「神さまなんて、いないんだ!」と言われたようでした。ヨーロッパから来たその宣教師は、
身をかがめて、その子の手を握り、目を見ながら、「だからわたしは、遠いヨーロッパから来たんだよ。」と答えた
そうです。その子は宣教師の言葉で、すべてを諒解できたようです。
   さて、今日の聖霊降臨祭では、復活したイエスさまが昇天された後、弟子たちの上に聖霊が降り、それによって
弟子たちは様々な賜物を受けて、力強く宣教を開始したとされます。言わば、教会の誕生を記念する祝日です。
聖霊によって受けた「賜物」は様々に描写されますが、それでは一体、聖霊「そのもの」とは何かと問われると、
しばし考えてしまいます。手がかりを探すと、今日の福音箇所では、イエスさまから「真理の霊」として紹介されています。
「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とイエスさまは言います。しかし、それは
「真理とは一体何か?」という問題に移ってきます。
    同じヨハネ福音書(18章)でイエスさまは、最後の晩餐の後にユダヤ人たちに捕まり、大祭司に尋問され、
そして、総督ピラトの元に連れて行かれました。「お前はいったい何をしたのか?」というピラトの質問に対して、
「わたしは、真理について証しするために世に来た。」(18・37)と答えます。これに対して総督ピラトは
「真理とは何か?」(18・38)と尋ねますが、イエスさまの返答は福音書には記されていません。ですので、
この間の情景は想像するしかないのですが、イエスさまが答えないことに対して、ピラトは、ユダヤ人たちの所に出ていき、
「わたしはあの者に何の罪も見いだせない」(18・38)と言います。
    イエスさまが「答えない」ことによって、ピラトは「真理とは何か?」という質問への回答に納得したとしか
解釈できません。一方で、ピラトはイエスさまが訴えられた原因が、人間社会での犯罪ではないと見極めたとも
考えられます。また他方、イエスさまが「分からないから答えない」のではなくて、言葉に言い表せるようなものは
「真理」の部分的・派生的な側面でしかなく、言葉にしてしまえば、それはもはや「真理」ではなくなるということを、
イエスさまが示されたとピラトは理解したのでしょう。
   このことから、イエスさまが「真理の霊」として紹介された「聖霊」を、「聖霊とは、これこれである」という形で
簡単に定義づけられないことが理解されます。むしろ、「聖霊」とは、これを受けた者がイエスさまの弟子となり、
弟子として生きることを通して、受けた賜物を表していくものではないでしょうか。しかし、このように述べても、所詮、
それは「聖霊」の働きの一側面でしかなく、言葉では言い表わせず、「言葉で答えない」ことの方が、より雄弁に
語ってくれるもの、つまり「伝えるもの」ではなく、「伝わるもの」・「感じるもの」と言えます。
先ほどの、宣教師が「だからわたしは、遠いヨーロッパから来た」と答えたことから、その子は何を感じとったのでしょうか?

 

※5月23日音声メッセージ(松井神父)はこのページの一番下よりご覧ください

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