司祭のメッセージ

5月9日 復活節第6主日 (母の日) ヨハネによる福音 15章9節〜17節

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。
わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を
守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
  これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、
これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを
僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべて
あなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが
出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、
わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)

   40年前に歴史上、始めて訪日したローマ教皇は、ポーランド出身の聖ヨハネ・パウロ2世でした。まだ覚えていらっしゃる方も
多いと思います。教皇様は訪日したその年の5月13日に、バチカンのサン・ピエトロ広場での一般謁見中に、ルーマニアから来た
暴漢によって銃撃され、瀕死の重傷を負うという事件に見舞われました。その年の4月にローマに行ったばかりのわたしは、
イタリア語のニュースが分からず、当初何が起こったのかよく理解できませんでした。ただ街中が騒然としていて、何台もの
パトカーや救急車がサイレンを鳴らして駆け巡っていました。周囲の神父に英語で尋ねたのですが、いつもは穏やかに
答えてくれる彼が、あまりに興奮していて、英語を話せなくなっていたのを思い出します。さて、その負傷から奇跡的に助かった
教皇様は、翌年の1982年にマキシミリアン・マリア・コルベ神父を列聖しました。コルベ神父は教皇様と同じポーランド出身で、
戦前の日本で布教し、長崎で「聖母の騎士」という雑誌を創刊しています。戦争中に帰国したコルベ神父は、ナチスに捕まり、
アウシュビッツの強制収容所に入れられ、そこで、ある若いお父さんの身代わりとなって死んだ方です。彼は1971年に
パウロ6世により列福されていたのですが、当時の基準では、列聖されるためには、さらに二つの奇跡が必要でした。
しかし、コルベ神父には、まだ二つ目の奇跡が証明されていませんでした。列福・列聖にあたるバチカン省庁は彼の列聖に
難色を示していたのです。
   そこで教皇様は今日の福音箇所、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」ということばを引き合いに出して、
コルベ神父の列聖に踏み切り、そして教会の列聖手続自体を改訂しました。以前は、「奇跡が必要だ」とのことで、列福・列聖を
推進する団体は、その聖人候補者の「御絵」と祈りのことばをカードにして、「何か奇跡が起こったなら連絡してください」と、
これを世界中の信徒に配っていたのです。ですから昔は、御聖堂内でトランプ・カードを繰るように、様々な聖人候補者の
「御絵」を使ってお祈りする信心深い方も、時折見受けられました。でも、それで病気が直ったり、「奇跡」が起こったとしても、
どの聖人のおかげなのかは分からないだろうなと、余計な心配もしてしまいます。
いずれにしても、教皇様が提起した事柄は、聖人として称える根拠は、その聖なる生涯にあるのか、それとも、死後に起きたとされる
超自然的で不思議な出来事なのかという点です。コルベ神父は、福音の教えに従って「友のために自分の命を」捨てました。
「互いに愛し合いなさい」というイエスさまの命令に忠実に従ったからです。
  今日の福音はわたしたちに、まさに「命をかけて」愛することを命じています。わたしたちが福音を読むとき、
ただことばの美しさに感動しているだけでは不十分なはずです。それを生活に生かし、自分で実行するときにのみ、
わたしたちもイエスさまから「友」と呼ばれるでしょう。
イエスさまが命を捧げられたのは、その「友」のため、つまり、わたしたちのためだったからです。

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5月2日 復活節第5主日 ヨハネによる福音 15章1節〜8節

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、
いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、
自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、
その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、
枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。
そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
  5月になりました。世間では「大型連休」ということで、自粛を要請されているにもかかわらず、あちこちに出かける方
もあるようです。最近ではコロナウイルス感染症が蔓延しているために、遠くにまで出かけずとも、人と集まっておしゃべりする
ことだけで「大罪」のように言われてしまいます。そのためでもないのでしょうが、若い人々、特に中高生などは、普段から
直接会って会話するよりも、スマートフォンや携帯電話でのコミュニケーションをよく使用しているので、あまり困らない
とも聞きました。メールやネット、チャット、ラインなどと言うものが、そのための道具だそうです。反対に、毎日これらを
チェックしていないと、友達グループに「つながって」いられないほどで、わたしのように2日も3日もメールをチェックしない人間は、
「信じられない」ほどの怠け者とされるそうです。
   さて、今日の福音では、イエスさまは「わたしにつながっていなさい」と仰います。これを聞いた人々は、イエスさまから
「ぶどうの木」と「その枝」のようだとの説明を受けて、そのまま直ぐに理解し、納得できたようです。現代では「ぶどうの木」
だとか「その枝」だとか言われてもピンと来ないし、こちらの修道院の裏手に生えている「ぶどうの木」を見ても、どこから
どこまでが「木」で、どこから「枝」なのかが、わたしにはさっぱり分かりません。どうやら、樹木のような枝と幹との
「接続」ではないようです。
     では、イエスさまに「つながっている」ことは、何によって具体化されるのでしょうか?
自分では、洗礼も受けたし、御聖体も拝領しているし、教会の維持費も払っているから、心の中で「つながっている」と
思い込んでいたとしても、今日のイエスさまは、「実を結ばない枝はみな、取り除かれる」と仰います。ただ洗礼を受ける
だけでは足りないのかも知れません。では、イエスさまから取り除かれないためには、どうやって、どのような実を結べば
良いのでしょうか? イエスさまの仰る「つながっている」ことが、樹木やネットのように、物理的・電気的な接続を意味する
のでないことは明らかです。内容としての思いや感情を、イエスさまと共有することと考えた方が良いかも知れません。
   さて、わたしたちは毎日、災害などのいろいろなニュースを耳にします。その被災者や犠牲者たちを「可哀想」と思うこと、
不正や犯罪、汚職などに憤ること、小さな子どもや弱い立場にある人たちが懸命に努力する姿を見て応援したくなること、
これら、日常生活で、普通の人間的感情を抱くことは、イエスさまも同じだと思います。何も特別な事柄を、遠くにまで
探しに出て行かなくとも、わたしたちの生活の場で、わたしたちにできる範囲で実行することが、イエスさまの思いを実践する
ことになるでしょう。同じように、テレビや新聞で報道されるようなレベルにはない、わたしたちの生活の場での小さな出来事
に対して、教会の教えと自分の良心に従い、行動し、応援することが、イエスさまの思いを実践することになるはずです。
  今、わたしたちはコロナウイルス感染症という災害の中に置かれています。この感染症を広がらせないための基本は、
以前から言われているように、「密」にならないことです。5月の連休にもかかわらず、いや、連休だからこそ、わたしたちは
「感染しない」、「感染させない」ことをまず考えて、自分や家族の健康のためにも、身体と心を休ませなければならないでしょう。
良い連休となりますように。

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4月25日 復活節第4主日  ヨハネによる福音 10章11節〜18節

〔そのとき、イエスは言われた。〕「わたしは良い羊飼いである。
良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、
狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。
— 狼は羊を奪い、また追い散らす。— 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
わたしは良い羊飼いである。
わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。
わたしは羊のために命を捨てる。
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。
その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
わたしは命を、再び受けるために、捨てる。
それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。
わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。
これは、わたしが父から受けた掟である。」

説教(主任司祭)
この教会の隣にある聖フランソワ幼稚園には、「ことり組」というのがあります。
まだ満三歳になっていない未就園児のクラスで、
「主にモンテッソーリ教育に基づいた日常生活の練習」を教育内容とするそうです。
毎日通園してくるというわけではなく、火曜日・木曜日・金曜日の、午前あるいは午後の1時間15分のコースだそうです。
幼稚園そのものが、小学校から始まる長い学校生活のための準備だと思っていたわたしには、
さらにその準備段階があるのか!と驚かされました。けれども、生まれた家にきょうだいも少なく、
また隣近所にも、同じように遊んでくれる幼児や児童のいない地域と時代では、人生の基本となる事柄を学ぶために必要なのでしょう。
さて、今日の福音でイエスさまは、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」と言われます。
これについてフランシスコ会訳聖書の注釈では、「まだキリストを信じていないユダヤ人や異邦人を指す」としています。
未だに多くの人が「キリスト信者」でない日本では、この言葉は、
洗礼によって「教会」という「イエスさまの囲い」に、まだ入っていない人を指すのだろうと思ってしまいます。
でも、もう少し考えて見ると、「洗礼」を受けさえすれば、自動的に「イエスさまの囲い」に入ったことになるのでしょうか?
つまり、洗礼を受けて教会の信徒名簿に名前が載りさえすれば、すべてOKなのでしょうか?
もちろん、答えはNO!です。
日常生活の中でイエスさまの教えを実践しない限り、イエスさまに導かれていることにはならないはずです。
そうすると、「イエスさまの囲い」に入っていないものとは、個人を意味するのではなく、
「囲いに入っている」と思っているキリスト者の、心の中を指すのかも知れません。
洗礼を受けるだけでなく、日常生活においてもキリスト者であることが重要で、
そのためには、信徒としての義務を果たすことは当然であり、それ以上に、
毎日の生活において「良心の糾明」をすることが必要となるのでしょう。
信徒としての霊的成熟度を、天国に至る霊的学び舎に例えてみれば、
わたし(たち)は、まだその幼稚園の、それも「ことり組」に通い始めた段階にあるだけで、
正式な園児にも認められていない存在なのかも知れません。
よい子の皆さん、よろしくお願いします。

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4月18日 復活節第3主日  ルカによる福音書 24章35節〜48節

〔そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、〕道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと
分かった次第を話した。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに
平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。
「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。
触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、
イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、
「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、
彼らの前で食べられた。
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。
これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために
彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
あなたがたはこれらのことの証人となる。」


主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
 今日の福音箇所では、復活したイエスさまが体をもっていることを示すために、手や足をお見せになった後に、
焼いた魚を弟子たちの前で食べて見せます。
 体の復活について教会で話すと、しばしば、「何歳くらいの体に復活するの?」と尋ねる方がおられます。
「何歳くらいだと思いますか?」と問い返すと、自分は既におばあちゃんになってしまったから、できるなら、若い頃、
20歳くらいのピチピチした体に復活したいそうです。確かに、死ぬ間際の、ベッドに寝たままのような状態に蘇生したと
すれば、またもう一度息を引き取るのを待つだけで、何の意味もないかも知れません。かといって、あまり若すぎる、
赤ちゃんのようでは、「復活」というよりは「生まれ変わり」に近くなってしまいます。では、どのような「体」なのでしょうか?
 ヒントとして、復活したイエスさまは、魚を食べただけでなく、戸が閉めてあったのに部屋の中に入ってきたり、
また、エマオやエルサレムなど、何カ所にも同時に現れたりします。しかも、そのお体には、十字架の苦難の際に
付けられた傷痕が、痛々しく残っているのです。
 復活したイエスさまが、すべての人の罪科を身に負って十字架に付けられたことを示す傷痕を持っておられたこと
からも分かるように、復活とは、他の存在になって生き返るのではなく、その人そのものとして復活するのです。
十字架の傷痕とは、イエスさまの地上での宣教生活の終わりに付けられたものであり、イエスさまの「生涯の総決算」を
刻むものです。つまり、イエスさま「らしさ」を端的に現すものだと言えます。しかも、戸が閉めてあったのに
部屋の中に入ってきたり、何カ所にも同時に現れたりということは、時間や空間という、この世での制約から免れた
自由な存在と言うことができます。
 これはどのように理解することができるでしょうか? わたしたちの場合には、おそらく、「愛に満たされて、
愛に動かされた生き方」とでも理解できるでしょう。
 例えば、ある若夫婦の住む家が、真夜中に火事になったとします。外から「火事だ!火事だ!」と叫ぶ声で、
若夫婦は飛び起きて、安全な場所にまで逃げ出します。やっと安心できる所に来て、振り返ると、赤ちゃんを家に
残したまま逃げてきたことに気がつきます。「赤ちゃんが、まだ火の中にいる!」と、若いお父さんは、周囲の人が
止めるのも聞かずに、炎の中に飛び込んで、赤ちゃんを救い出そうとします。そこは、つい先ほど命からがら逃げ出した
ところであるのに、自分の身の安全や、燃えさかる炎などはまったく考えもせず、ただただ、赤ちゃんが寝かされていた
ベッドにたどり着こうとします。
 このように、愛に突き動かされて行動するとき、人をこの世の価値や制約で縛ることはできません。その人は既に、時間と空間に
縛られた世界にはいないからです。イエスさまが示された復活とは、愛に満たされ、愛に動かされた生き方をすることなのです。


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4月11日 復活節第二主日(神のいつくしみの主日)
ヨハネによる福音 20章19節〜31節

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とを
お見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。
父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、
赦されないまま残る。」
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、
この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、
イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、
また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
 このところ、官庁に勤める方々をはじめとする送別会や歓迎会でのコロナ集団感染が次々と判明して、
「集まって会食すること」自体がすっかり悪者扱いされるようになりました。でも、わたしたちの教会におけるミサでは、
互いに距離をとり、マスク着用した上での典礼参加ですので、これとは異なるはずです。しかし、信者が共に集って、
イエスさまの身体である御聖体を一緒に拝領すること、相互の交わりと歓びこそがミサの目指すところと言われていますので、
内実をご存じない方は、早とちりなさるかも知れませんね。
さて、今日の第一朗読の「使徒たちの宣教」では、信じた人々が心も思いも一つにして、すべてを共有していたと伝え、
第二朗読の「使徒ヨハネの手紙」では、「イエスがメシア(救い主)であると信じる人は皆、神から生まれた者です」
と宣言されます。また福音では、週の初めの日の夕方に、家の戸に鍵をかけて弟子たちが集まっているところへ、
イエスさまの現れたことを伝えています。出現したイエスさまは、手とわき腹とをお見せになって、御自分が十字架の
苦しみを受けた本人であることを示し、弟子たちに息を吹きかけて、聖霊をお与えになります。
ところで、なぜ弟子たちは「週の初めの日」、つまり日曜日に、一緒に集まっていたのでしょうか。福音書は
「ユダヤ人たちを恐れて」と理由を述べていますが、それは、教会がその始まりにおいて、「ナザレのイエスを
リーダーとするユダヤ教の異端者グループ」として理解され、周囲から迫害を受けていたからでしょう。しかし、
弟子たちは単に隠れていたわけではないようです。イエスさまがそこに現れることによって、それがイエスさまの
教えを信じる者たちの集い、原初のミサ形態の描写であることから分かります。
何よりも「八日の後」、つまり日曜日ごとに集まることによって、「主の復活」を記念する集いとなるのです。
「八日目」とは、一週間が終わった次の日です。創世記によれば、主なる神は天地を七日間で創造されました。
このため「八日目」とは新しい一週間の初めだけでなく、新しい天地創造の始まりをも示すことになります。
イエスさまの復活によって、新しい天地が始まるのです。
またイエスさまは、弟子たちに「手とわき腹」とをお見せになります。現れた方が、弟子たちと共に宣教生活を送り、
十字架の苦しみを受けて死に、墓に葬られた方、そのものであることを示すためです。復活なさったイエスさまは、
弟子たちに息を吹きかけて聖霊を与えられます。それは弟子たちを遣わして、人々に罪の赦しを得させるためでした。
イエスさまを信じるとは、イエスさまの教えを信じることです。イエスさまの教えを信じる者は「弟子」となり、
信じたことを他の人々にも伝えることによって「使徒」となります。このことから、イエスさまが復活なさったのは、
弟子たちを「使徒」に変容させるため、言い換えれば、新しい天地創造のためであったと理解することができます。
その新しい天地創造のために使徒たちが伝えるのが福音であり、イエスさまの教えを自分の生活の中で実践すること、
それこそが、永遠の命であり、まことの幸せに至るというメッセージです。
わたしたち皆がすでに、「使徒」の役割を担っているのです。

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