司祭のメッセージ

1月23日 年間第3主日(神のことばの主日)
     ルカによる福音 1章1節〜4節、4章14節〜21節

 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、
物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を
初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが
確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。
〔さて、〕イエスは『霊』の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、
皆から尊敬を受けられた。
 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。
  「主の霊がわたしの上におられる。
  貧しい人に福音を告げ知らせるために、
  主がわたしに油を注がれたからである。
  主がわたしを遣わされたのは、
  捕らわれている人に解放を、
  目の見えない人に視力の回復を告げ、
  圧迫されている人を自由にし、
  主の恵みの年を告げるためである。」
 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
 今年に入ってから埼玉県でも、新型コロナ感染症のオミクロン株というのが蔓延し始め、とうとう再び「公開ミサの休止」
の連絡が司教館から出されました。小学校などでは、既に学級閉鎖となったり、休校となっていた所もあるようです。
2年ほど前から始まったコロナ禍に、徐々に慣らされてきたとは言え、再び教会で御ミサに与ることまでも制限されるのは、
つらいものです。
 さて、今日の福音の初めは、ルカ福音書の「著者の序」とされる部分で、「テオフィロさま」という人物に献呈された形を
取っています。この名前が「神を愛する者」という意味を含むことから、キリスト信者すべてに対して宛てられたものと
考えることができます。ルカ福音書は、この「著者の序」に続いて、「洗礼者ヨハネとイエスの誕生」(1・5〜2・52)と
「宣教への準備」(3・1〜4・13)が述べられ、今日の「宣教開始」の箇所となります。ですから、ルカ福音書における
イエスさまの宣教の第一声は、「この聖書の言葉は、あなたがたが耳にしたとき、実現した」というものなのです。
 イエスさまがお読みになった聖書は、預言者イザヤの巻物(61・1〜2)で、主の僕の使命、つまり「約束された救いの
到来を告げる使命」を宣言して宣教を開始されたのです。これをイエスさまは「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
と宣べられました。では、「今日」とはいつなのでしょうか? 「今日」とは、二千年前のことではなく、この言葉が
わたしたちの耳に届いた「今日」です。「あなたがた」とは誰なのでしょうか? イエスさまのお声を聞いていた、
ナザレの会堂に集まった人々のことでしょうか? しかし、この福音書は「テオフィロさま」に宛てられたものです。
つまり、神を愛し、イエスさまの教えについて良く知りたいと願っている人たちに宛てられたものです。それは、
この箇所について初めて聞いた人だけでなく、既に何度も何度も聞いている人、わたしたち信者となった者にも当てはまる
ものです。わたしたち自身が「貧しい人に福音を告げ知らせ、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」とき、この言葉が「実現した」とされるのです。つまり、聞くだけではなく、
実際に、経済的に貧しい人、因習に捕らわれている人、救いへの希望が見えない人に、解放と光をもたらすことが言われているのです。
 このように考えると、コロナ禍にあえぐ社会にあって、自分だけではなく、さまざまな制約を受けている人、絶望の淵に瀕している人、
困窮している周囲の人々に気づくときにこそ、イエスさまの言葉が思い出されるのです。「主の霊がわたしの上におられる。」
イエスさまはこの言葉によって、ご自分の使命をはっきりと自覚され、宣教を開始されました。イエスさまの弟子であるわたしたちも、
自分の使命を思い起こして隣人愛のわざを捧げなければなりません。

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1月16日 年間第2主日 ヨハネによる福音 2章1節〜11節

〔そのとき、〕ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。
このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

主任司祭の説教(濱田神父)
福音では、婚礼の最中にぶどう酒が足りなくなり、イエスさまが水をぶどう酒に変えるという奇跡をなさいます。
イエスさまが相当な酒好きであったなどと考える必要はありません。
イスラエルの結婚式は3段階に分けて理解できます。
まず、花婿の家族は、彼が結婚を切望する若い女性の親と婚約を取り決めます。
この婚約はラビからの離婚許可書なしには破棄されることができません。そのためこの段階で既に結婚したものと見なさているのです。
もし、その後に他の異性と性交渉を持つなら、これは姦通したことになり、律法に従えば「石殺し」になる可能性があります。
ですから、イエスさまを身ごもった時のマリアさまは、大変危うい状況に追い込まれていたのです。
さて、結婚の次の段階は、人々の前でのお披露目と祝杯です。
まず、ぶどう酒と式のための祝福が行われます。次いで、花婿と花嫁が天蓋の下に立ち、花婿が花嫁に指輪を渡します。
結婚証書が読まれ、もう一度ぶどう酒が祝福されて、結婚のための七つの祝福の言葉が唱えられます。
それは、ぶどう酒、被造物、男、女、シオンの出来事、結婚の喜び、イスラエルの回復についての祝福です。
その都度、参列者は祝杯を挙げます。そして第3の段階は、花婿と花嫁が一室に退いて二人だけとなり、結婚式は完了します。
饗宴は3日から7日間続くとも言われます。
ですから、今日の福音箇所はこの結婚式の第2段階にあたるもので、乾杯が終わらなければ結婚の祝福が中断されることになってしまうのです。
単に酒飲みどもの欲求を満たすための乾杯ではなかったのです。
また「宴会の世話役」は、イエスさまが変化させたぶどう酒を味見して、良いぶどう酒だと言いましたが、
彼が現代のソムリエのように、ぶどう酒を鑑定する専門家であったとはされていません。ただ一口飲んだだけで分かるほどの違いがあったということです。
それは、当時は、秋に実を収穫して発酵させたぶどう酒を長く持たせるために、アルコール度数と糖度を上げて腐敗を防がなければなりませんでした。
焼酎ほどのアルコール度数になったと言います。これを実際に飲む場合は、適度に水で割って飲まなければなりません。
糖分のあまり多くないブドウで造ったものは、長く置くと酸化して、半ば酢になってしまうので、海水のような塩水で割ってごまかしたようです。
そうすると塩味の混じったぶどう酒となります。
宴会の世話役は、まったく塩味のしない純粋なぶどう酒を一口味わって、「良いぶどう酒だ」と花婿をほめたのです。
さて、イエスさまは母マリアさまに「婦人よ」と呼びかけています。
サマリアの女性に呼びかけたとき(ヨハネ4・21)と同じ言葉なので、自分の母親に対するものとしては、とても他人行儀で冷たい印象を与えてしまいますが、
少しイエスさまの意図は異なるものだったでしょう。
別の箇所、受難の箇所では、十字架の下に立つマリアさまに「婦人よ、これはあなたの子です」(ヨハネ19・26)と愛する弟子を示しています。
その意味として、マリアさまがキリストを信じるすべての者の母親となることを願ったのであれば、
人類の始祖であるエワと対比されていることが分かります。
つまり、エワが罪を犯すことによって、その子孫のすべてに原罪の害悪を及ぼしたのに対して、
マリアさまは、すべてのキリスト信者のために恵みを執り成す母と立てられたと言えるのです。
まさにカナの婚礼の場面もこれに当たります。
わたしたちの生活において、それほど高尚ではなくとも、身近で切実な事柄を、
神さまやイエスさまには気恥ずかしくてお願いできないようなことも、母であるマリアさまには打ち明けることができ、
マリアさまは必ず執り成してくださるのです。

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1月9日 主の洗礼 ルカによる福音 3章15節〜16節、21節〜22節

〔そのとき、〕民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、
もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

主任司祭の説教(濱田神父)
明けましておめでとうございます。
今日は、ミサの中で、新しく成人となった4人の若い方々を教会としてお祝いいたしましょう。
新成人の方々は、これからは教会でも大人として扱われ、また大人として振る舞うことになります。
その活躍が大きく期待される一方、また責任も問われることになります。わたしたちは、心から応援しております。
さて今日の典礼は、降誕節の締めくくりとして、「主の洗礼」を祝います。
イエスさまが、聖家族に守られた生活から、宣教生活という実社会へのデビューを記念し、明日の月曜日からは年間の典礼となります。
福音では、イエスさまご自身がヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、そのとき三位の神性が現れたと描写されます。
御父は「天からの声」として、また聖霊は「鳩のように見える」姿で、そしてイエスさまは「祈る人」として紹介されます。
この洗礼の後、イエスさまは宣教を開始することになるのです。
イエスさまの洗礼において三位の神性が現れることから、宣教生活におけるイエスさまの言葉とわざは、
常に三位の神のわざ、つまり御父そして聖霊のわざでもあることが示されているのです。
特に御父は「天からの声」と表現されます。
旧約聖書の創世記には、天地創造の第1日目に、神が光あれと「仰せになる」とそのとおりになったとされています(創世記1・3)。
そして続く第2日目も第3日目も、第6日目まで、神は「仰せになる」ことを通して、そのわざを行われます。
このため、「創造する方の声」として表現されていると理解できます。御父は創造主なる神なのです。
同じように聖霊は、神の霊として、天地創造の初めに、「水の上を覆うように舞う」姿で描かれます(創世記1・2)。
フランシスコ会訳聖書の注釈を見ますと、「『覆うように舞っている』という動詞(ラヘーフェー)はまれな語で、
鷲が雛鳥を飛ばせようとして、その巣の上を舞っている様を描く申命記32章11節に用いられている」とあります。
イエスさまはそのとき、「洗礼を受けて祈っておられます。」
創世記のこの箇所にあてはめれば、「深淵」のように静かな状態です。
このことは、聖霊が「鳩のように降って来る」ことの理解を助けるもので、
「まったく霊的でない存在の上に聖霊が降った」のではなく、同じ霊的な本質を持つ方、イエスさまの上に舞う(降る)ことにより、
その霊的本質を発露させるよう促している様を描くものとなります。
このように、創世記における天地創造の初めを描写する神の働きが、再びイエスさまの洗礼において使われることによって、
イエスさまが新しい世界を築く方そのものとして示されていることが分かります。
新成人たちの門出をお祝いしながら、わたしたちもまた、新しい年を一緒に築き上げてまいりましょう。

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1月2日 主の公現  マタイによる福音 2章1節〜12節

   イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方から
エルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方で
その方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているかと問いただした。彼らは言った。
「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
      『ユダの地、ベツレヘムよ、
      お前はユダの指導者たちの中で
      決していちばん小さいものではない。
      お前から指導者が現れ、
      わたしの民
     イスラエルの牧者となるからである。』」
   そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを
詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて
出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を
贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ
帰って行った。

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
   改めまして、新年明けましておめでとうございます。昨夜はどのような初夢を御覧になったでしょうか。今日、1月2日は、
いろいろな物事を始める日とされて、書き初めや初夢、初売り、箱根駅伝、皇居への一般参賀などの行事が行われます。
元旦が家庭で静かに過ごす一日であるのに対して、人々の活動が始まる日です。
   教会では「主の公現」の祭日です。「公現」、ギリシア語で「エピファニア」とは、隠れていたものが顕わになるという意味
です。特に、イエスさまの神性が顕わになるということから、主の降誕、洗礼、カナの婚礼、山上での変容も、その意味では
「エピファニア」となります。降誕と密接に関係している公現祭は、かつて1月6日に祝われていましたが、1960年の
「典礼暦年に関する一般原則」によって、日本では1月2日から8日の間の主日に祝うことになりました。今日の福音でも、
占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、ユダヤ人の王はどこに生まれたかと尋ね、ベツレヘムを訪れたと記されて
います。つまり「星の導きによって御ひとり子が諸国の民に示された」ことの内容です。この学者たちについて、「3人の王さま」
と解された時代もあり、カスパル、メルキオール、バルタザールという名で、旅人の守護の聖人として尊ばれたそうです。
だいぶ以前になりますが、ローマ留学中に友人のドイツ人司祭から、クリスマスの時期に招かれたことがあります。彼は中部
ドイツの小教区主任司祭で、同じグレゴリアン大学の教会法学部で一緒に勉強しました。その時の公現祭の日に見た光景ですが、
子どもたちが「3博士」の扮装をして各家庭を回り、年始めの祝福として、各玄関の扉にC・M・Bとその年の数をチョークで
記していました。扉に印す文字は、今年でしたら、「2+C+0+M+2+B+2」となります。子どもたちはこのC・M・Bを
「3博士」(カスパル、メルキオール、バルタザール)の名前の頭文字と思っていたようですが、友人の主任司祭は、これは
ラテン語で「キリストがこの家を祝福してくださいますように。」(Christus Mansionem Benedicat)という言葉の頭文字だと
説明していました。子どもたちはお駄賃として、日本であれば「お年玉」のようなお金をもらえるのですが、友人の主任司祭は、
それを全額アフリカに送って、飢えに苦しむ子どもたちを援助するよう諭していました。自分の欲しい物よりも、まず困っている人、
貧しい人のことを考える霊性が、子どもの頃から教えられているのです。
   この一年が、心の豊かさの養われる年となりますように。

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1 月1日 神の母聖マリア     ルカによる福音 2章16節〜21節

〔そのとき、羊飼いたちは〕急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
その光景を見て、〔彼らは、〕この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの
話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞き
したことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
   八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
   新年おめでとうございます。今日は元旦、一年が始まる日です。各地で新年の行事が行われていることでしょう。
しかし、一般の社会生活で一年間を数える仕方は、それを使う分野によってさまざまに変わります。例えば、日本では、
学校の学年度や役所などの会計年度は4月に始まり、3月頃に終了します。これに対して欧米の国々では、学年度は
10月に始まり7月頃に終了するようです。8月と9月は欧米の学校では長い夏休みです。一年間をいつから数えるかは、
起点を春分にするか、あるいは秋分にするかの違いと思われます。春分を起点とするのは、出エジプトの出来事を
記念した過越祭りの影響かも知れません。日本は明治時代に近代的な学校制度を創設するにあたり、ドイツの制度が
モデルになったので、4月から始めています。また、秋分を起点とするイタリアやフランスは、ギリシアの学校制度に
影響されたのかも知れません。いずれにしましても、その一年間に何を行うかが重要なのであって、開始や終了の日付は
二次的なもののはずです。
   これに対して教会での一年は、「神の母聖マリア」を祝うことから始まります。これは一見、マリアさまについての
称号だと思われてしまいますが、この称号「神の母」が表現しているのは、マリアさまのお産みになった御子イエスさまが、
どのような方であったのかの理解です。古代の教会では、イエスさまを産んだ方について、イエスさまが救い主キリストで
あったので「キリストの母」(ギリシア語で「クリストコス」)とすべきなのか、あるいはイエスさまが神であったので
「神の母」(ギリシア語で「テオトコス」)とすべきなのかと長く論争が繰り広げられ、ついに431年のエフェソ公会議で
決着がついたという歴史があります。キリスト教徒にとって、一年の始まりは、わたしたちの救いをもたらす方についての
祝いなのです。
   福音では降誕祭から8日目の今日、「八日たって割礼の日を迎え、イエスと名付けられた」と記されています。
「イエス」とはギリシア語の呼び方、「イエスース」によるものですが、もともとはヘブライ語の「ヨシュア」です。
旧約聖書の出エジプトの出来事で、イスラエルの民をエジプトから導き出したのは「モーセ」でしたが、その後を継いで、
民を約束の地に導き入れたのは「ヨシュア」でした。「ヨシュア」とは、「神は救う」という意味であり、救い主である方の
名前となるわけです。また、神が世界を7日間で創造されましたので、「8日目」は、「新しい世界の始まり」を意味する
ことになります。実際、例えばローマのラテラノ教会など、古い教会の洗礼聖堂は、「八角形」に建てられており、
洗礼が新しい世界、新しい生命に誕生することを示しています。イエスさまの場合は、まだユダヤ教の割礼でしたが、
その意味するところは同じです。
   神さまからの祝福を受けて始まることによって、この一年が実り豊かであるようとの思いは、宗教や文化を超えて
すべての人に共通すると思われます。この一年が豊かな祝福に満ちた年であるよう祈りましょう。

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12月26日 聖家族   ルカによる福音 2章41節〜52節


  〔イエスの〕両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って
都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を探し回ったが、見つから
なかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり
質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、
母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、
イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、
知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、
ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、
背丈も伸び、神と人とに愛された。

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
   クリスマスおめでとうございます。昨夜は皆さんのご家庭で、ゆっくりとした団らんの時をすごされたことと思います。
さて、今日は「聖家族」の祝日ですが、「聖家族」というタイトルを聞くと、互いに完全に理解し合い、何のいさかいも、
行き違いも生じないような、理想の家庭のように受けとめられがちです。しかし、今日の福音では、少々異なった様相が示されます。
十二歳になった少年イエスさまが、両親に断りもなく勝手にエルサレムに残り、両親はそれと気づかずに三日も捜し回ります。そして、
母親のマリアさまが「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」と反省を促すと、
イエスさまの反応は、素直な謝罪の言葉ではなく、かえって、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、
知らなかったのですか。」とイエスさまの方が驚いているのです。その言葉は、ご自分がヨゼフさまの子ではなく、神の御子だと
自覚していることを示しています。ヨゼフさまのその時の言葉は示されていません。しかし、ヨゼフさまは、もともと寡黙な方で
あったと思われますので、黙ってその言葉を受け流されたのでしょう。ヨゼフさまは、同居する前にマリアさまが身ごもっていたのを
知った際に、夢で天使からお告げを受けていた(マタイ1・19-24)はずなのですが、そのことが実際には何を意味するかを
完全に理解していたわけではないでしょう。ただ、マリアさまを辱めることなく「妻マリアを家に迎え入れた」という事実だけが
記されています。
   どうしてイエスさま・マリアさま・ヨゼフさまの家族は、互いに完全には理解していなかったのに、協力し合えたのでしょうか。
それはおそらく、互いに人として尊重し、尊敬する心があったからではないでしょうか。ややもすると、血がつながっているだけで、
互いが分かり合っているような気持ちになったり、自分と同じ屋根の下に一緒に暮らしているから、自分と同じ考えを持つはずだ
といった、一方的な思い込みは、互いの真の理解や協力を妨げてしまいます。
   今日の福音記述が示している「聖家族」の手本は、互いの相違や、自分の理解を超える部分を、人格を尊重して受け入れ、
その上での協力することです。人間的な感情に基づかない、理性的な愛の姿なのです。

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12月25日 主の降誕(日中)  ヨハネによる福音 1章1節〜18節

  初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は、
初めに神と共にあった。万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは
何一つなかった。言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。
《神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、
    また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。》
その光は、まことの光で、世に来てすべての人をてらすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、
世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、
その他を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、
人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
  言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての
栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
  《ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしよりも
     優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、
     この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、
     恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところに
    いる独り子である神、この方が神を示されたのである。》

主 任 司 祭 の 説 教(濱田神父)
クリスマス、おめでとうございます。
   主の降誕、日中ミサの福音箇所は、「初めに」で始められる「ロゴス賛歌」と呼ばれています。旧約聖書の最初の書
である創世記の冒頭も、「初めに」の語で始まりますので、このヨハネ福音書は、天地創造が行われたとき、つまり
世界が創られたときには、既に「みことば」が神と共にあったことを記しています。
   一般に、「みことば」であるイエスさまが人となって生まれたのは、「世を救うため」であったとされています。
しかし、「世を救うため」ということを、単にイエスさまがお生まれになった当時のローマ帝国の支配からイスラエルの
民を解放するためと理解するなら、イエスさまを政治家か革命運動家かのように把握することになってしまいます。
その時点から2000年も経過して、ローマ帝国などとっくに滅亡してしまった現代では、何の意味も持たなくなります。
ですから、「みことば」が人となってこの世に来なければならない理由は、単にイスラエル民族やローマ帝国などという、
具体的な社会や個々の人々を超えた「人間性全体」に関するものにあるはずです。それは、人間の世に常に存在してきた
悪と罪、つまり、「原罪」とされるものからの解放でなければなりません。
  旧約聖書では「原罪」を、人祖アダムとエワが神さまからの言いつけに背いて、善悪の知識の木の実を食べたことと描写
しています。そのことから、その罪の結果は、罰として人祖が楽園から追放されるだけに止まらず、すべての人間に及んで
いること、それぞれの人間が自分の自由意志で何らかの悪を犯すことによって、その「原罪」を自分のものにしていること、
また、誰の責任にもできないような、共通の悪の存在を説明するものとなります。また神さまは「愛そのものである方」
(1ヨハネ4・16)なので、悪とは、愛に背く行いのすべてと言うことが出来ます。そのため神さま側から、新たな救いの
手が差し伸べられなければ、人間はこの状態から脱出できないのです。
   しかし、人祖が罪を犯したことに起因すると仮定すると、もし仮に、人祖が罪を犯さなかったならば、「みことば」である
御子が人間となって生まれる必要がなかったことになります。このような、人間の罪だけに注目してしまう考え方を排除する
のが、今日の福音です。人祖アダムとエワが罪を犯した原罪を前提として、その罪の結果から人類を救うために、御子イエス
さまが人となられたというよりは、この福音箇所が教えるのは、世界の初めから神さまと共にいて、万物をお造りになり、
その天地創造のわざを完成するために、「みことば」である御子が遣わされたことです。実に御子イエスさまによる救いとは、
人間を悪と罪の状態から、創造の初めにあった幸いな状態、「原始義」を取り戻すに止まらず、わたしたちを「神の子」と
するまでに高める「救い」なのです。つまり、「愛そのものである方」からの、「新たな愛」が差し伸べられたのです。

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12月25日 主の降誕(夜半) ルカによる福音 2章1節〜14節

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、
ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである。あなたがたは、
布にくるまれて飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。
これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」

説教 (主任司祭)
 クリスマスおめでとうございます。
一昨年来のコロナ感染症の影響により、信徒の皆さんには、
地区別や年齢別に御ミサに与っていただくなど、ご不自由をおかけしております。
今年もまだ、声を合わせて聖歌を歌うことが許されないなどの制約が残っておりますが、
それでも御一緒に、主イエスの誕生を心からお祝いいたしましょう。
さて、今日の福音では住民登録のことが語られていますが、
当時のイスラエルが従属していたローマ帝国では、14年毎に戸籍調査があったそうです。
実際、同じようにローマ帝国の元にあったエジプトには、紀元20年から270年までの戸籍調査の記録が残っています。
イエスさまの誕生が今日の福音にあるように、戸籍調査の頃だったとしてこれを逆算していくと、
紀元前8年から前6年の頃になります。
けれども、この福音書の物語が示したいのは、イエスさまがベツレヘムでお生まれになったことです。
ベツレヘムは預言者ミカの書で、「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る」(5・1)とされ、
第二のダビデが誕生する地とされていました。
ですから、ベツレヘムで生まれたと記すことは、
直弟子たちにはガリラヤの町ナザレ出身だと知られてきたイエスさまが、
どうして神の民・イスラエルの指導者・約束された救い主であるのかを説明する役割を担っています。
しかし、今日の福音箇所ではそれだけでなく、
この救い主の誕生を天使によって最初に知らされたのが、野宿をしていた羊飼いたちであったと示されます。
羊の番をするのは、何の技量も要らない単純な仕事です。
旧約聖書に、少年のダビデが「羊の番をしていた」(サムエル下16・11)
と記されているように、子どもにでもできる仕事だったのです。
既に大人となった者がこれを職業とするということは、何の技術も持っていないか、
あるいは他の職業に就くことを妨げられるような事情を抱えた人であったことが分かります。
いずれにしても、人前では何も誇るものを持たない貧しい人々です。
このことは、自分が何も出来ない、取るに足りない人間であると思い込み、
落ち込んでいる人にこそ、救いの福音が真っ先に届けられるのを示しています。
何も誇るもののないわたしたちの元に、
救い主がお生まれになったという喜びのメッセージが今日、再びわたしたちに向けて発せられているのです。

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12月19日 待降節第4主日 ルカによる福音 1章39節〜45節

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
そして、ザカリアの家に入ってエリザベトに挨拶した。
マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。
エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

説教(主任司祭 )
今日の福音は、マリアさまのエリザベト訪問の箇所です。天使からお告げを受けた後、マリアさまは親戚のエリザベトを訪問します。
するとエリザベトの胎内で子が喜びおどりました。それでエリザベトは、声高らかにマリアさまを祝福します。
マリアさまとエリザベトという二人の女性は、それぞれ旧約聖書と新約聖書になぞらえられる人物を産むことになるのですが、
エリザベトが年老いた不妊の女であったのに対して、他方のマリアさまは若いおとめであり、
この対照が旧約と新約の両聖書の対比に反映されています。
マリアさまの挨拶を聞いて、エリザベトの胎内でおどって喜んだお腹の赤ちゃんは、後に洗礼者ヨハネとなります。
この場合、「おどった」とは、日本舞踊のように静かに「踊る」ではなく、飛び上がって喜ぶ「躍る」です。
つまり、子どもが「ワーイ!」と言って喜んで「躍る」ものです。
この赤ちゃんの動きは、旧約聖書の代表である洗礼者ヨハネの反応を示すものなので、
マリアさまの挨拶のお声には、新約聖書を体現するイエスさまの御旨が反映されていることになります。
かつて、聖書の勉強会に来ていたお母さんたちに「お腹の中の赤ちゃんは、本当に『おどる』のですか?」と尋ねたことがあります。
お母さんたちは、「『おどる』というより、動いたり、お腹を蹴ったりする」と答えました。
「どんな時に?」と重ねて尋ねると、「美味しい物を食べたとき」や「お風呂に入ったとき」とかの答えでした。
その他の答えもありましたが、すべてリラックスしているときで、お母さんが緊張して何かの仕事をしているときには、お腹の赤ちゃんもじっとしているそうです。
このことから類推すると、エリザベトは、偉い人や難しい人を迎えたときのように、緊張しながらマリアさまを迎えているのではなく、
親戚であり、気配りや遠慮のいらない女性を、喜びにあふれて迎えていたことが、人間的にも理解されます。
そのことはまた、旧約聖書と新約聖書の関係についても当てはめることができます。
新旧両聖書は、まったく異質な書物なのではなく、互いに補完し合い、関係しています。
イエスさまは、イスラエルの民が長い信仰の歴史を経た上で、初めて人間としてお生まれになったのです。
これをわたしたち個人の信仰の旅路について当てはめて考えると、わたしたちもまた、
イエス・キリストと出会うため、本物の信仰に巡り会うために、それぞれ長い回り道をたどってきました。
それは、たとえ先祖の代から受け継いで幼児洗礼を受けた方でも、成人してから洗礼を受けた方と同じように、
信仰を自分自身のものとするまでに、長い迷いや試練のときがあったはずです。
つまり、洗礼による信仰にいたるまでの道のりを、わたしの旧約時代とするならば、
その中にすでに、信仰に導かれる新約時代が隠されていたと考えることができます。
イエスさまの誕生を、わたしたちの信仰の誕生として祝うことができるのです。

 

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12月12日 待降節第3主日 ルカによる福音 3章10節〜18節

〔そのとき、群衆はヨハネに、〕「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
そこで、ヨハネは皆に向かって言った。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、
殻を消えることのない火で焼き払われる。」
ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

説教(主任司祭)
今日は待降節第3主日です。司式者は、「バラ色」の祭服を着用します。
それは、待降節の節制を強調する「紫色」ではなく、第一朗読と第二朗読で示された「喜び」を表す色です。
そのため、かつては節制期間の「中休み」とも言われましたが、
待降節に入っても、あまり特別な節制もしていないわたしなどにとっては、少し恥ずかしい思いがさせられます。
でも、昔からの厳しい規定があった時代にも、待降節中のこの日には「結婚式」も許される「喜びの日」でした。
さて今日の福音は、イエスさまについてではなく、先駆者である洗礼者ヨハネについてのものです。
ヨハネが宣教を開始し、悔い改めの洗礼を宣べ伝えると、大勢の人々が洗礼を受けに彼の所に来ますが、
ヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人々を、「まむしの子孫よ」(ルカ3・7)と呼んで彼らを寄せ付けません。
ですから、「群衆」はヨハネに「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねます。
「群衆」とは、ギリシア語で「オクロイ」(οχλοι)と言い、ファリサイ派やサドカイ派のような特別の立場にない、一般の庶民であったことが分かります。
ヨハネはこの庶民に、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。」と答えます。
「下着」と訳されている語は、ギリシア語では「キトーナス」(χιτωνας)なので、日本語の「下着」よりは、「衣服」を意味します。
例えば、イエスさまを尋問していた大祭司が、イエスさまのことばを聞いて
「衣を引き裂いて言った」という箇所(マルコ14・63)での「衣」(キトーナス)は、着ている衣服・上着を意味することから分かります。
このことから今日の箇所での洗礼者ヨハネは、着替えを持てる余裕のある者は、上着を一つも持てない者に分かちなさいと教えているのです。
そして徴税人や兵士たちにも、簡単に実践できる良心的な生活を教えました。
このような教えを聞いて、宗教的にも社会的にも、失って困るような立場を何一つ持っていない「民衆」は、メシアを待ち望んでいて、
ヨハネに期待をかけていました。
この「民衆」とは、ギリシア語原文で「ラオン」(λαον)であり、指導者でない者、またユダヤ人でない諸民族を意味します。
このように、財産も地位も、何も持たない者、また血筋もはっきりしない異邦人こそが、
純粋にメシア・救い主を待ち望むことができ、ヨハネからイエスさまを指し示されたのです。
使徒パウロは「フィリピの教会への手紙」の中でこう言っています。
「皆さん、主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4・4)

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