2016年6月

凛として

フランシスコ・マリア 古里慶史郎神父

5月7日、トマ須賀沢公男神父様が永眠されました。

4月15日の朝、突然足腰が立たなくなり、病院での検査の結果、おそらく胆管炎だということで、即日入院でした。このとき私たちは、きっと元気に退院してこられると思っていましたので、私はミサの中で皆さんにそのようにお伝えしましたし、部屋の掃除などをしてリハビリ生活を快適に過ごしていただけるよう、準備を始めていました。

それが、4月の下旬になり、どうやら単純な炎症ではないことが発覚し、5月3日には黄疸と敗血症が始まったというニュースが入ってきました。このときに、「あ、もう退院はして来られないかもしれない。お別れかも知れない」と覚悟をしました。

このとき、私は、仙台でシスター方のために黙想会の指導中でした。刻々とニュースは入ってきていて、修道院の兄弟たちやシスター方が献身的に寄り添ってくださっていることも知っていました。ただならぬ雰囲気を感じてくださった方々が、少しずつお見舞いに来てくださっていたことも知っていました。

しかし私は、そのような電話の連絡口から感じ取れる緊迫した雰囲気とは裏腹に、トマ神父様からは遠く離れたシスターの修道院の中におりました。とても不思議な感じがしていました。こんなに近くにいる兄弟の最後の日々を、まったく別の場所で、驚くほどに静かな環境のなか、沈黙のうちに受け止めていました。

深夜の聖堂で祈っているとき、北浦和の小聖堂と同じく、私の隣でトマ神父様がお祈りなさっている姿を想い描いていました

今頃、トマ神父様は何を感じておられるだろう、私の隣でいつもロザリオの先唱をしておられたように、今も病床でロザリオの祈りをしておられるだろうか、とも想像してみましたが、しかし、私の心の中のトマ神父様のイメージは、聖堂の暗闇の中で、ただ、背筋をのばし、完全な沈黙の中で、じっと念祷しておられたのでした。

人として本当に尊敬すべき方でした。どこまでも謙遜で、その姿には、私もこのように齢を重ねたいと思わせる人徳がにじみ出ていました。とても、とても寂しいです。

そしてまた、修道者として。喉が渇いて仕方がなかった最期には、兄弟の1人に「煉獄は喉が渇くねぇ」と言われたようです。「私は罪人の中の罪人です」と書き残された神父様にとって、最後の一週間の苦しみは、きっと天国へと向かう清めの時だったのでしょう。最期の最期まで私たちに修道者の端正な佇まいを示し、凛とした清々しい姿で旅立って行かれました。

トマ神父様の帰天に際し、皆さまからいただきました多くの愛と祈りに、心から感謝いたします。ありがとうございました。

教会報 2016年6月号 巻頭言

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