2017年2月

殉教

フランシスコ・マリア 古里慶史郎神父

今月、修道院では入れ替わりで映画「沈黙」を見に行く兄弟がたくさんいて、殉教について考え、また話す機会がたくさんありました。

皆さんは映画館でご覧になったでしょうか。かなり長い映画ですし、取り扱われるテーマが神の沈黙(あるいは沈黙の中の神の声)、殉教、棄教、と、とても重いので、かなり覚悟して見る必要があるのは事実です。しかし、映画としての出来は素晴らしく、また演じている俳優の方々が、主人公の2人の宣教師はもとより、日本人の信徒や代官役をはじめ全員が迫真の演技で、おそらくこれ以上の映画化はできないだろうと思われるほどの出来栄えでした。

内容については、監督の原作に対する深い愛情を感じられるほどに忠実に映画化されているとだけ申しておきましょう。

ここでは、ネタバレを避けて、私が感じたことを書いてみます。

本編冒頭で、日本に赴く2人の若い宣教師が、「日本は最近、シマバラで3万人以上の信徒の首が撥ねられた場所だ」(島原の乱)と警告されるシーンがあります。このセリフによって、おそらく世界中の映画の視聴者は、現在のシリアやアフリカの国々でのテロリズム、特に数年前にISによって「イスラムへの改宗か、死か」と迫られ、結果として斬首されたコプト教徒の方々のことを思い出すに違いありません(教皇様は彼らを現代の殉教者と呼んでいます)。

私たちは無条件で日本人の潜伏キリシタンに感情移入して見てしまいますが、世界の視聴者は、日本という舞台が、現在の中東と重なり、もし中東で苦しむキリスト者を、主人公のように単身救済に向かうとしたら、おそらくこうなるであろう苛酷な運命を、日本人代官の執拗な迫害を通して、ある意味追体験できる内容となっていると感じました。

おそらくそのようにして、現代において全く相容れないと思われる文化の衝突と、それを乗り越える道筋を私たちが見出していくことができるだろうか、見る者が考えるように、という招きがあるのだろうと思います。
これは、真剣な問いです。私たちは、中東のテロリズムが席巻するこの世界の中で、キリストに従いながら、どのように和解の道を歩んでいくことができるでしょうか。

おそらく簡単には答えは出ません。映画にも、明確な答えは指し示されません。しかし、本編が終わり、スクリーンが暗転した直後、マーティン・スコセッシ監督のメッセージとして、「この映画を、日本のキリスト教の信徒と、その司牧者に捧げる」という献辞の言葉が出た時、私の心はぐっと締め付けられました。日本におけるキリスト教の迫害の歴史と、多くの殉教者、そして宣教師たち、すべての存在が今私たちに投げかけているメッセージと、また励ましの言葉であるように受け取れました。

辛く重いテーマの映画ですが、私たちに信仰を伝えてくださった先達の信徒や宣教師に思いを馳せるためにもとてもよい映画ですので、劇場に足を運ばれるのもよろしいかと思います。

教会報 2017年2月号 巻頭言

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